森家住宅主屋は、今年1月に登録有形文化財(建造物)に登録された、県内で94番目の文化財である。
森家は、江戸末期の天保5年(1834年)に、忽那諸島の中島から三津浜港に近い三津の三穂町に移り住み、よろず問屋、精米・精麦業を営んでいた。三穂町は問屋・商店や銀行などが建ち並ぶ商人町で、この地区の多くの商家では、店頭で商品を展示・販売する小売業の店先とは異なり、建物内の、商用の間での商談と座敷での接待によって商売が営まれていた。
主屋は、昭和4年(1929年)に森要三郎によって建築された。総棟梁は森家の親戚、吉田勘次郎が務めた。間口8.8mの木造2階建で、正面は2階壁面を軒裏まで銅板張りとし、1階は北寄りの窓の下部に大きな御影石が張られている。関東大震災後、東京で流行した、防火・防災のために木造建物の壁面に銅板やタイルを張る手法の影響を受けたと考えられている。建築後80年を経た2階壁面は緑青がふき、時代の流れを感じさせる美しさを見せている。
1階には商談や取引を行う、通りに面した部屋のほか、玄関に続いて次の間(2帖)、仏間(6帖)、座敷(10帖)がある。座敷は俳諧の場として人が集まり、句会が開かれていた。2階には、家人の居室と和・洋それぞれの客間があり、和室は身内の客用に、洋間は個人的な来客用に使われた。また、家人用と来客用に別々の階段を設けるなど、来客を重視する間取りで、往時のにぎわいをほうふつとさせる。
現在、1階は、要三郎の孫で神奈川から帰郷した森直樹氏が、森家に伝わる鯛飯をメインとする飲食店「鯛や」として営業している。店内には、現在のチラシ(広告)にあたる「引き札」や昭和初期に発刊された雑誌や太平洋戦争中に発行された新聞などが置かれてあり、タイムスリップしたかのような雰囲気の中で食事ができる。また、2階は、私設のとなっており、森家に伝わる商売や俳諧・句会の資料、三津の古地図、港の写真など、貴重な品々が多数展示されている。
建て主の要三郎は、家業に励みながら俳句をたしなみ、連翠という俳号を持っていた。小屋組の梁には、という句が墨書きされており、建築に寄せる要三郎の想いがうかがえる。要三郎の父・栄三郎も連甫と号し、俳句の宗匠・大原其戎を師としていた。ちなみに栄三郎と正岡子規は、其戎門下の兄弟弟子関係にある。
庭園には青桐の高木が植えられている。直樹氏によると、「座敷正面の庭石の間に青桐があるのが不釣り合いのように見えて、いつかは伐ろうと思っていたが、ある時、訪ねて来られた方から『河東碧梧桐の青桐※に違いない』と教えられた。栄三郎と交流のあった碧梧桐が上京する際に、別れを惜しんで植えたものだろう」とのことであった。
近代の建物が並ぶ三津浜で緑青の壁がひときわ異彩を放つ森家住宅。家人が戻り、客人でにぎわう昭和初期の商家建築として、三津の歴史・文化、そして貴重な俳句資料を守り続けていただきたい。
※ 「碧梧」は青桐の別名、「梧桐」は青桐の中国語。碧梧桐は、青桐をこよなく愛したと言われている。
参考文献
愛媛県教育委員会(2006):愛媛県の近代和風建築-近代和風建築総合調査報告書
窪田重治(1992):城下町松山と近郊の変貌青葉図書
(新藤 博之)
犬伏武彦EYE
「棟札がないか」と屋根裏に上ったとき、建築年や建て主・森要三郎、総棟梁の名が梁に書かれてあるのに小躍りした。ほかに何かないかと体をねじって梁を見上げたとき、草書体の字が見えた。俳句だった。
と!
多くの家の屋根裏に上がったが、俳句が書かれていたのは初めてのことだった。間取りを図にしたときも「この家は、商売より句会のことを考えて建てたのではないか?」と思った。商家建築であると同時に俳諧の盛んだった三津を物語る文化財である。
(松山東雲短期大学 生活科学科生活デザイン専攻 特任教授)