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愛媛の「名工」を訪ねて

千年の釘に挑む ~木造建築を支える和釘鍛造~ 鍛冶 白鷹 幸伯 氏 (2007年11月) 

2007.11.01 愛媛の「名工」を訪ねて

産業の近代化とともに、わが国の製造業はコストや効率を重視してきた。しかし一方で、長年にわたって伝統技術を受け継ぎ、次世代に伝 えてゆく「名工」達がいる。
 今回から「愛媛の『名工』をたずねて」と題し、愛媛を代表する作家をたずね、制作工程や作品を紹介する。第1回は、和釘鍛造の鍛冶、白鷹幸伯氏である。

野鍛冶の家に生まれる

松山市堀江町にある白鷹さんの工房、「トン、トン、トン」と鉄を鍛えるハンマーの音が響く。
 「うちは、田舎の鍛冶屋よ。何も大したことはしよらんかった」
 白鷹さんの父親は、松山地方の野鍛冶。地鉄(じがね)に鋼をつけて鍛え、くわやなた、建築金物などの道具を製作していた。高校卒業後、一度は家業を手伝うものの、26歳で上京、日本橋の刃物商「木屋」に勤めながら、弁護士を目指すため中央大学法学部の2部に入学した。
 「鍛冶屋が嫌でたまらず、逃げるようにして東京に行った」と当時のことを振り返る。しかし、木屋在職中、薬師寺再建や法隆寺の修復に携わる西岡常一棟梁との出会いが、その後の白鷹さんの人生を決定付けた。

 

西岡常一棟梁との出会い

「西岡さんと出会わなければ、松山に帰ってきても、目先の客相手に包丁しか作らなかっただろう。でも、西岡さんと出会ったおかげで、鍛冶屋としての夢が持てるようになりました」
 家業を継いでいた土佐鍛冶の長兄の急逝もあり、白鷹さんは帰郷し、鍛冶を再開した。西岡棟梁から古代大工道具の復元や和釘の指導を受ける中、薬師寺西塔再建のための和釘制作を求められる。しかも、ヒノキと同様、千年はもつ釘を。

白鷹さんの自宅にて。後には師の西岡常一棟梁の写真も

白鷹さんの自宅にて。後には師の西岡常一棟梁の写真も

 

薬師寺再建「千年の釘」

「ヒノキの柱は千年以上もつが、現代釘の耐用年数はせいぜい30年。製鉄所で作った現代鉄では、千年はもちません」
 古代の釘は、砂鉄を原料に、たたらという技法でつくられ、純度は99%以上あり、錆びにくい。しかし、高炉で大量生産される現代鉄には不純物が多く、腐食とともに釘の機能を失ってしまう。また、炭素割合の加減で、硬すぎるともろく、軟らかすぎると木に打ち込めない。
 釘に適した高純度鉄をどうやって入手しようかと頭を抱えていたところ、大手鉄鋼メーカーNKK(現JFE)が、貴重な文化遺産を守る有意義な事業だとして、炭素の含有率が0.1%の古代鉄に近い高純度鉄(SLCM材)を製造し、採算度外視で用意してくれた。
 和釘の形状は、法隆寺などの解体修理現場から出たものを基準に西岡棟梁が図面を起こした。
 西岡常一棟梁との出会い、高純度鉄、そして白鷹さんの技術。こうして、千年の釘は再現された。まず、薬師寺西塔用の和釘が6,990本鍛造された。その後、薬師寺回廊や大講堂など、約2万本を鍛造した。「いろいろな鉄を集めて、叩いてみたり曲げてみたり試行錯誤したが、最後は鍛冶屋の直感でした」
 さて、和釘をみると、その形は、現代釘とまるで異なる。現代釘は洋釘と言い、明治期に伝来したものである。一方、和釘は、薬師寺の白鳳型ならば先端は細く、真ん中は表面がでこぼこして膨らみがあり、頭に近い部分は再び細くなっている。その理由を白鷹さんが次のように説明してくれた。
 「木に釘を打ち込むと、木と釘の間に隙間ができる。木の繊維は、元に戻ろうとする性質で膨らみ、隙間を埋めて密着する。頭の部分が錆びて胴体だけになっても、釘は抜けません」
 白鷹さんの和釘の話を聞きつけた全国の宮大工たちが和釘を求めるようになった。錦帯橋(山口県)架け替え時には、棟梁が何度も訪ね、薬師寺と同じ材質の和釘が18,000本鍛えられた。県内では、松山城天守閣修理や大洲城天守閣復元、愛媛県武道館建築に白鷹さんの鍛造した和釘が使われている。

白鷹さんによって鍛えられる白鳳型和釘

白鷹さんによって鍛えられる白鳳型和釘

 

「千年の釘」鍛造を体験

お話を伺ううち、「釘というより、多分スプーンみたいになると思うけど、1度作ってみますか」とお誘いを受けた。
 「これは、大変なことになった」と思いながらも、釘を鍛えさせていただく機会に恵まれ、後日訪問することにした。
 数日後、作業着で工房を訪ねると、そこは、材料となる鉄や鍛造道具が山のように積まれ、あたかも秘密基地の様相だ。奥の炉のそばでは、白鷹さんが準備をされていた。
 今回体験したのは、長さ約30cmの白鳳型和釘の制作である。すでに炉の中には、釘になる材料の鉄棒が、赤というより黄色っぽく光っている。温度は1,050℃くらいとのこと。炉のそばにある掘りごたつのような穴に腰掛けると、にわか鍛冶の作業開始だ。
 白鷹さんの手によって、鉄棒は丸い棒から荒延べの作業を終えて、四角い状態になっていた。手を添えてもらいながら、鉄棒を手ばさみで炉から取り出し、まずは、頭の部分の加工。四角い穴のあいた型に通し、頂部をハンマーで打ってつぶし、釘の頭の形にする。形はどうあれ、「鉄は熱いうちに打て」という言葉どおり、ただ力任せにハンマーを振りかざす。何となく釘の頭の形にはなっただろうか。

再び炉に入れた後、次は電動のベルトハンマーで穂先を形作る。しかしこれが難しい。ペダルで速さを調整しながら打つと同時に90度回転させて角と長さを整えるのだが、まったくうまくいかない。釘というよりネジのようにねじれたり、曲がったりしてしまった。
 最後にハンマーで穂先を尖らせ、整形するのだが、これも真っ直ぐにはならず、グニャグニャと曲がってしまった。スプーンとまでは言わないが、おおよそ和釘とは似つかぬ代物ができあがった。
 製作したのは、特製の高純度鉄と、一般の鋼材の異なる材質の2本。高純度鉄は柔らかく、ハンマーで打ったときの感覚もしなやかで、スーッと伸びる。長さだけは、和釘に近いものとなった。一方、普通鋼材は硬く、打っても伸びにくい。2本の長さは、長短まちまちになった上、穂先も曲がっている。
 「初めて作ったものとしては、上等。釘の頭はきれいにできている。同じ物は二度とできん、これは釘ではなく芸術品ですよ」と白鷹さんに褒めていただいたが、並べてみるとご覧のとおり。

 

願奉 萬民豊樂ばんみんぶらく 荘厳國土しょうごんこくど

「千年先のことはわからんが、千年先に鍛冶屋がいたら、千年前の鍛冶屋もいい仕事をしたな、と思ってもらいたい。下手くそと笑われるくらい職人にとって辛いことはありません」
 鍛えられた和釘には「願奉 萬民豊樂 荘厳國土」と刻印されている。聖武天皇が東大寺を建立した際の詔の一説だ。千年先にも木造建築や和釘、職人たちの技術を伝承したい。そこには、鍛冶としての想いが深く刻み込まれている。

2007年10月工房にて

2007年10月 工房にて

白鷹 幸伯(しらたか ゆきのり)

1935(昭和10)年、松山市生まれ。
 高校卒業後、鍛冶に専念。26歳で上京、日本橋の木屋刃物店に勤めながら、中央大学法学部2部卒業。木屋在職中の1971年に西岡常一棟梁と出会う。翌年、帰郷。刃物制作のほか、古代和釘や古代大工道具の復元もライフワーク。

<受賞歴>
1996年  愛媛新聞文化賞
1997年  日本建築士会より伝統的技術者賞
2001年  吉川英治文化賞
2005年  日本建築学会文化賞
2006年  文部科学大臣賞地域文化振興賞  など

<著 書>
『鉄、千年のいのち』(草思社)

(新藤 博之)

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