シリーズ「愛媛の近代化産業遺産を訪ねて」4回目は、松山市港山町にある石崎船渠造船所(現角田造船所第二工場ドック)をご紹介します。
港町三津浜と古深里の造船所
松山市の中心部から北西約5キロに位置する 三津浜地区。古くは伊予水軍の拠点として多くの軍船が出入りし、城下町松山の外港として様々な物資を積んだ船や客船の発着で賑わった港町である。明治末期以降、海上交通の玄関口が高浜に移り、港町としてのかつての賑わいはやや色あせたものの、今もなお、いたるところにその痕跡を見ることができる。
伊予鉄道三津駅から三津浜商店街を通り、辻井戸を越えたところで右手に曲がると、三津浜地区でも特にレトロな町並みが残る三津1丁目である。醤油の香り漂う狭い通りを抜けると、「三津の渡し」にたどり着く。対岸は、かつて古深里(こぶかり)(現在の港山町)と呼ばれていたところで、左手に港山城跡、右手に観月山が並び、そのふもとに造船所を見ることができる。今治市波止浜の造船所群に比べればその規模ははるかに小さいが、船台に乗せられた船やクレーンの並ぶ様は、港町三津浜らしい風景といえよう。
二基の石造ドライドック
観月山の東のふもとに位置する角田造船所の 第二工場には、二基の石造ドライドック(乾船渠)が残されている。ドライドックは、船の建造や修繕を行う施設で、陸地を掘り下げて作られた作業場に船を海水とともに曳き入れ、水門を閉めて排水し、ドライの状態で作業を行う仕組みとなっている。
ドックの壁の部分は、45度に傾けた石が整然と積み上げられており、底には船体を支える盤木が並べられている。西側の第一ドックは、全長65m、幅11m、深さ5.7mで、中型のタンカーや旅客船の修繕に使われている。東側の第二 ドックは、全長47m、幅9.5m、深さ5mで、第一ドックよりひと回り小さい。
このドライドックを建設したのは、明治末期に設立された石崎船渠造船所である。県内では、既に、明治35年(1902年)に設立された波止浜船渠造船所がドライドックを備えていたが、石崎船渠造船所の創業者石崎金久は、当時波止浜に次いで海運・造船の盛んであった三津浜に、近代的な造船設備であるドライドックを導入したのである。
当初のものは、もっと自然石を積んだ形に近かったようで、大正期、もしくは昭和初期に改良を施されて、現在のような形になったのではないかと言われている。その後も部分的な改造が行われ、水門扉が木製から鉄製になり、一部コンクリートで補修されているところもあるが、大部分が石積みのままで残されている。似たような石積みのドライドックは、波止浜にも残っているが、こちらは昭和17年(1942年)に建設されたものと言われており、三津浜の方がより古い形のようだ。
石崎金久と愛媛の造船業
石崎船渠造船所は、第一次世界大戦による好 景気に乗って業績を伸ばしたが、創業者である石崎金久は、経営不振に陥っていた波止浜船渠造船所の経営陣に請われ、同社再建のため波止浜に赴き、大正12年(1923年)、同社の社長に就任した。一方、古深里の“石崎船渠”は、その後いくつかの造船所に引き継がれ、昭和55年(1980年)に現在の角田造船所の所有となっている。
波止浜船渠造船所の再建に奔走した石崎金久は、その後伊予木鉄造船所(後の波止浜造船所)の社長に就任するなど、長年にわたって造船業の経営にあたり、愛媛における造船業の発展に大いに貢献した。『しまなみ海道の近代化遺産』(大成経凡著)では、“愛媛近代造船の父”として石崎金久翁が紹介されているが、その原点は、この古深里の“石崎船渠”に他ならない。造船王国の礎を築き上げた金久翁の遺産は、今なお現役で活躍している。
(福本 太一郎)
【参考文献】
『愛媛温故紀行』 編集発行 財団法人えひめ地域政策研究センター(2003年)
『しまなみ海道の近代化遺産』大成経凡(2004年)
『城下町松山と近郊の変貌』窪田重治(1992年)