尾道市からスタートした「しまなみ美術館めぐり」。島しょ部を渡り、最終回は玉川町へ。今治市内から鈍川温泉に向かって15分ほど車を走らせると見えてくるのが、今回ご紹介する「玉川近代美術館」だ。
美しい町の小さな美術館
玉川近代美術館は、故徳生忠常(とくせいただつね)氏(玉川町名誉町民)のふるさとへの熱い想いと、それに共感した大川栄二氏(当館名誉館長、群馬県桐生市の大川美術館理事長兼館長)の並々ならぬ努力の結晶で生まれた。別名を「徳生記念館」という。
玉川町に生まれ、東京に出て月賦百貨店経営で成功を収めた徳生氏は、ふるさとに文化の土壌を遺したいと考え、美術収集家として著名な大川氏に、美術館づくりを依頼した。大川氏は、徳生氏のふるさとを想う「真摯な姿に、ただしびれさせられ」、一切を任されて着手。最低でも10年はかかるといわれる美術品の収集を、高齢の依頼者(当時85歳)のため、できるだけ早くオープンさせたいという一心から、自身の収集品を一部提供するなどして、わずか1年余りでなし遂げた。そして1986年12月、「美しい町の小さな美術館」としてオープン、玉川町に寄贈された。
館内には、明治以降から現代に至る近代洋画美術が広がる。松本竣介、中村彝(つね)、野田英夫、その他にも黒田清輝、藤島武二などの大家から、郷土出身画家およびピカソ、ルオー、ユトリロなどの海外作品もあり、小品(しょうひん)主体のコレクションだが見応えは十分。一級の作品を集めて近代洋画史が概観できる美術館は、国内でも数少ない存在だという。
徳生氏の子息と友人だという当館事務長の森さんは、「徳生氏のふるさとへの想いに触れ、一級の作品に接することによって、当館が地元の子供達の啓発になれば」と語る。
「小鳥」-詩情にあふれた心象風景-
私のいちばん心に残った作品は、糸園和三郎(いとぞのわさぶろう)の「小鳥」。この絵を見た瞬間、小鳥からイメージする情景とは程遠い悲哀を感じた。同時に、ある文学作品が頭の中を駆け巡った。それは斎藤茂吉の短歌「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり」だ。眼前の美術と頭の中の文学とが渾然一体となって、私に強い寂寥感を覚えさせた。
少しオーバーな表現かもしれないが、とにかくどちらも小鳥という愛らしい、ほのぼのとしたイメージの対象を用いているにもかかわらず、それとはかけ離れた情念を抱かせることに改めて芸術の深みを感じたのだ。私自身、絵は好きで、中学時代から人物や風景などをよく描いていた。写実的な判りやすい絵を好んで観たり描いたりしていた私にとって、この「小鳥」は衝撃的だった。
前出の大川氏は「絵は判るのではなく、感ずるもの」と述べているが、私もその境地に少し近づくことができたのだろうか?
糸園和三郎は、1911年に大分県で生まれ、16歳で上京、川端画学校を経て前田寛治に師事、1943年に松本竣介らと共に新人会に参加。1968年には第8回日本美術展にてK氏賞を受賞した。
学芸員の白石さんによると、この作品は彼の円熟した時期のもので、詩情にあふれているが、甘美におちいらず緊張感のある心象風景だという。
心のベールを取り去ろう
心象絵画は、作者の心(意識)に浮かんだものを描いたものであり、それを理解しようとしてもなかなか難しい。しかし、「回数を重ねて何度も鑑賞すれば、きっと作者の心にふれることができると思います。心のベールを取り去って、絵と対話をしてください。今までと違った自分に出会えるかもしれません 。」白石さんは熱く語ってくれた。
エピソード
当館の所蔵作品の軸となっている画家、松本竣介は、中学入学直後聴覚を失い、さらに長男を出生の翌日に亡くすなど過酷な運命にありながら、素朴に人間を愛し、その心を絵の中に描き続け、36歳の若さでこの世を去った。当館所蔵作品「子供」のモデルになったのは彼の次男だが、それはなんと当館の設計者、松本莞氏なのだ。当館が、画家の遺子しかも作品のモデルになった人物によってデザインされた建物だということも、興味をそそる。また、当館所蔵の前田寛治「裸婦」のモデルは去年亡くなった歌手の淡谷のり子さんだという。要チェックだ。
興味深いエピソードや作品が盛りだくさんの玉川近代美術館。あなたも、ぜひ何度も(一度ではなく)行ってみて、絵と対話をしてみては。
6回にわたってご紹介した「しまなみ美術館めぐり」も今回でおしまい。しまなみ海道沿線にはまだまだ素晴らしい美術館や博物館がいっぱい。第7回はあなた自身が行ってみよう!
参考文献:「玉川近代美術館」 玉川町立玉川近代美術館発行
「美のジャーナル」 大川栄二著
(松尾 明彦)