はじめに
ある分野で世界一あるいは日本一のシェアを誇る製品を持ち、発展を続けている県内の事業所を紹介する企画“くろーずあっぷ「愛媛が誇る世界一、日本一企業」”。
第5回目は、「オイラはボイラー、ミウラのボイラー」の島田紳助のコマーシャルでお馴染みの小型貫流式ボイラー生産日本一の三浦工業(株)を訪ねた。
1.「小型貫流式ボイラー」国内シェア50%
ボイラーの発する熱や蒸気は、いろいろな場所で用いられる。大きなものは、工場やビル、店舗で、小さなものは私達の家庭のキッチンや風呂場などで活躍している。
一口にボイラーと言ってもいろいろな種類のボイラーがあるが、当社は水管ボイラーのうち小型貫流式ボイラーで国内シェア50%を誇る日本一の企業である。
2.「世界一のボイラーメーカー」を目指して
当社の設立は1970年。前会長の故・三浦保氏が「世界一のボイラーメーカーになる」ことを目指し、スタートした。当社の今日までの歩みと、その成功要因を追ってみよう。
~Zボイラの誕生~
三浦氏は実父が操業した精麦機の工場を受け継ぎ、新しい販路開拓により売上を伸ばすなど、当初から非凡な商才を発揮していた。当時、圧扁機(あっペんき)という麦を蒸して伸ばす機械も作っていたが、ここで生涯続くボイラーとの出会いが始まった。麦を蒸すのにボイラーが必要であったが、当社の圧扁機に合うボイラーメーカーは県内に1社しかなかった。そのため精麦機の生産にボイラーの生産が追いつかず、せっかくの販売チャンスを逃し、大変くやしい思いをすることもしばしばあった。
そこで三浦氏は「ボイラーを自分で作ろう」と考え、自らボイラーの研究開発に着手した。ちょうど高度成長期の頃で、今後はボイラーがどんどん普及していくとの予感もあった。
初めの3年間は当時主流の丸ボイラーを手掛けていたが、思ったような成果が出せず、苦戦が続いた。しかし、59年に新しく圧力容器安全規則が制定され、「小型貫流式ボイラーであればボイラー技師がいなくても運転が可能」となった。この規制緩和をチャンスととらえ、高性能の小型貫流式ボイラーの開発に傾注していった。
小型貫流式ボイラーは、給水ポンプによって管の中に送られた水が、燃焼室の上の長い加熱管を順次貫流し、蒸気となる仕組みで、丸ボイラーに比べ、据付面積が5分の1、蒸気発生時間も大幅に短縮を実現させるなど新世代の製品であった。
当時、小型貫流式ボイラーに乗り出していたのは、巨大な資本や技術面のバックを持つ2社だけであった。
従業員数名の零細企業がこれらの企業を相手に市場に参入することは「途方も無い挑戦」であった。これらの企業に打ち勝つために、三浦氏は日夜ボイラーに思案をめぐらせていた。何か頭にひらめくと、どんなことをしていようとも手を止め、アイデアを書き留めておき、深夜に試作するといったことの繰り返しであった。その結果、加熱管を複数にするなどそれまでの小型貫流式ボイラーに種々の改良を加え、熱効率を格段に高めた「Zボイラ」が誕生したのである。
しかし、「Zボイラ」には気水分離器がついていたため監督官庁からは小型貫流式ボイラーとは認められなかった。規格の解釈をめぐり、見解の相違があったようだ。そこで、社長自ら東京の本庁に足繁く通い、規格に合致していることを粘り強く訴え続けた。その熱意が実り、「Zボイラ」はようやく規格認可を果たし、当社は新たなステップを踏みだした。
~業界の常識を覆した有償保守管理契約~
「Zボイラ」は、安全で高品質であることから、まず中小零細業者の多いクリーニング業界から圧倒的な支持を受け、その後、他の業種にも順次普及していった。
しかし、売上が増加するにつれ、故障やクレーム対応も増えていった。ボイラーは高温高圧の蒸気を発生させることから、メンテナンスを少しでも怠れば故障が発生しやすくなる。もし故障すれば、修理の間、ユーザーは操業ストップに追い込まれる。中小零細業者にとって命取りにもなりかねない。そうしたユーザーの不安をなくすため、当社は業界の常識を覆す「ZMP契約制度(Zボイラ・メンテナンス・プログラムの略)」を導入した。これは、三年間有償で保守管理契約を行うもの。同業他社はメンテナンスをあくまでアフターサービスの一環と位置付けており、原則無料で対応していた。当社はボイラーを販売する時の価格をメンテナンス料金込みとする代わりに、ユーザーに対しては十分なメンテナンスを定期的に実施、故障の発生を最小限に抑えるシステムとした。品質とサービス体制に確信がなければできないことであった。
これに対し、当初は営業サイドからは不満の声が上がった。同業他社との価格競争上不利になるのではないかと心配したからだ。
しかし、メンテナンスサービスはユーザーとの重要な接点であり、最大のセールスになると考え、新発売のボイラーについてはZMP契約なしでは販売をしないという方針を打ち出した。蓋を開けてみると、当社のメンテナンス重視の思想はユーザーの幅広い支持を受け、「Zボイラ」の売上は着実に増加していった。
ミウラート
三浦保氏は事業で世界中を飛び回るかたわら、趣味の面でも、能を舞い、轆轤(ろくろ)を回し、茶会を開くなど、多彩な趣味で良く知られている。特に、陶芸・絵画など美術工芸を愛し、自ら創作活動にも打ち込み、それぞれ優れた作品を残している。
晩年には、独自の陶板画芸術「ミウラート(ミウラとアートの造語)」を生み出した。最後の作品となったミウラートの1つ「創造への自鳴」は伊予銀行の研修所ロビーに展示されている(右写真)。
また、長年収集した現代絵画・版画、陶磁器や氏のアート・スピリットに共感する作家の作品などを展示するミウラート・ヴィレッジ(三浦美術館)を残した。
3.上場そして海外進出
73年の第一次オイルショックでは設備投資の冷え込みにより、当社も大きな影響を受けた。予約先からキャンセルが相次ぎ、売上高は大幅に落ち込んでいった。
しかし、省エネルギーを前面に押し出した新製品を次々と投入することにより、2度のオイルショックをみごと乗り越え、82年には大証2部上場を果たした。
ちょうどその頃、当社は北米進出を本格的に意識し始めていた。世界一のボイラーメーカーになる夢と野望を掲げる当社にとって、世界最大の北米市場に進出することは、当然進むべき道であった。
しかし、北米進出は決して容易なものではなかった。ボイラーの規格にはそれぞれの国で違いがあり、北米ではASEM(米国機械学会)とUL(火災防止等の安全規格)という2つの規格を満たさなければならない。ASEM規格は80年に取得できたが、UL規格の方は厄介であった。書類を取り寄せ和訳してみたものの、解釈で不明な点も多かった。わが国で初めてのことのため、手がかりを探しあぐねた。三浦氏は、「日本にいてもらちがあかない。現地に人をやろう」と考え、急遽社員を英会話学校で猛勉強させ、数ヵ月後にアメリカに派遣するなどして、UL規格の取得にチャレンジした。その結果、84年にUL規格取得に成功。米国以外のボイラーメーカーでは初めてのことであった。そして87年には、北米市場をターゲットとする合弁会社をカナダのオンタリオ州に設立した。また、工夫と改善の積み重ねで築き上げた技術力と上場による自信をテコに一つひとつハードルをクリアし、台湾や中国などにも進出していった。
そして、89年に念願の東証・大証1部上場を果たした。大証2部上場から7年、当社設立30周年を迎えての快挙であった。
4.環境分野のトップランナーを目指す
「テクノサービス・エボリューションで、熱・水・環境のベストパートナーを目指す」という企業理念を掲げ、「熱」と「水」を極めるテクノロジーとサービスを基本に、ボイラーからメンテナンスへ、そして水処理技術を活かした軟水装置などの水機器を手がけ、さらに環境機器の分野へと、その事業範囲を拡大している。
最近、当社の環境機器分野が全国から注目を集めている。それはダイオキシン管理型廃棄物処理装置「ダイオシャットシステム」である。有害物質のダイオキシン類を有効に削減できるものとして愛媛県が普及推進する「EHM(えひめ)方式」を採用した焼却炉で、ダイオキシン類を低減・無害化することで、世界をリードする製品と言われている。
当社は、科学技術に根ざした新しい産業の創造には産学官の密接な連携が非常に重要であるとの考え方から、99年に愛媛大学農学部に寄付講座「環境産業科学講座」を開設し、2002年には「環境産業研究施設」を同大学内に寄付している。愛媛県は環境有害物質の研究では先進県であり、大学との共同研究拠点が整ったことで、さらに大きな成果に結びつくことが期待される。
(木内 淑雄)
【会社概要】
所在地 | 松山市堀江町7番地 |
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社長 | 白石 省三 |
従業員数 | 1,784人 |
URL | http://www.miuraz.co.jp |
【会社沿革】
1927年 | 三浦政次郎氏が三浦製作所を創業 |
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1959年 | 全自動制御のZボイラを開発 法人化し、(株)三浦製作所となる |
1978年 | 関連会社を吸収合併し、三浦工業(株)へ社名変更 |
1982年 | 大阪証券取引所市場第2部上場 |
1989年 | 東京・大阪両証券取引所市場第1部上場 |
1992年 | 三浦環境科学研究所を新設 |
1998年 | 三浦美術館「ミウラート・ヴィレッジ」開館 |
1999年 | 愛媛大学に寄付講座「環境産業科学講座」を開設 |
2000年 | ISO9001認証取得 |
2001年 | 三浦環境科学研究所が日本初のISO/IEC17025認定取得 |
2002年 | 「環境産業研究施設」を愛媛大学に寄付 |