【会社概要】
代表取締役社長 | 二神勝利 |
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本社所在地 | 四国本社:伊予三島市紙屋町 2-60 |
東京本社:東京都中央区八重洲 2-7-2 | |
設立 | 1943年5月5日 |
資本金 | 225億円 |
特定分野で世界一、日本一のシェアを持つ県内企業を紹介する“くろーずあっぷ「愛媛が誇る世界一、日本一企業」”。第8回目となる今回は、ティシューペーパー、トイレットペーパーの分野で日本一のシェアを誇る、伊予三島市の大王製紙(株)を訪ねた。
1.同社のあゆみ
紙・パルプ・紙加工業の、国内有数の集積地、宇摩地区。その中核をなすのが大王製紙(株)である。売上高は連結で3,858億円(単体3,182億円)、製紙業界国内第3位(世界第20位)の規模を誇る同社は1943年(昭和18年)、第二次大戦の戦局が次第に厳しさを増す中で設立された。
戦中・戦後の激動期を乗り越え、同社を一躍日本有数の製紙会社に押し上げたのが新聞用紙とライナー(段ボール原紙)である。同社が新聞用紙に本格参入した1950年は、日本が朝鮮戦争特需に沸く中で新聞各紙が夕刊を創刊し、新聞用紙の需要が急激に伸び始めた時期であった。毎日、多くの読者が手に取る新聞用紙の製造に携わるようになったことが、常に消費者を意識し、品質にこだわる同社の伝統をつくりあげていった。その品質へのこだわりはライナーにおいても発揮された。57年には強度に優れたオールバージンパルプのライナーを開発、それまで木箱中心だった梱包材の世界に革命をもたらせた。折しも時代は高度成長期。その時代を支える素材型産業の担い手として、同社は成長を続けていった。
ちなみに、現在の同社三島工場は、新聞用紙やライナーのみならず、印刷用紙、包装用紙、家庭用薄葉紙等あらゆる紙を生産しており、その生産量は、単一工場としては世界一を誇っている。
2.悲願の「家庭紙進出」
50年代から70年代にかけて、産業用紙の一大メーカーとして力を蓄積してきた同社は、78年のPPC用紙(情報用紙)への参入を皮切りに、79年に家庭紙、80年には途工紙(印刷用紙)へと、事業内容を広げていった。
なかでも、一般消費者に直接商品を提供する家庭紙への進出は、総合製紙メーカーを志向する同社には欠かせないものであった。「ティシューペーパーなんて、製紙業界の刺身のつまをやるのか」と家庭紙への進出に難色を示す故井川伊勢吉会長(当時社長)に対し、井川高雄現最高顧問(当時副社長)は家庭紙進出の意図を切々と説いた。「業界の川上にあるメーカーが入手する情報は流通を経て得られるものがほとんどである。しかしながら、情報をありのままには伝達しないのが流通である。だとすれば、エンドユーザーのニーズを汲み取るために、我々は独自の方法を確立しなければならない」。家庭紙への参入は、単なる事業分野の拡大にとどまらず、いかに消費者と繋がり、そのニーズを見極めていくかという命題をも見据えた決断であった。
3.わずか7年にしてトップメーカーに躍進
1979年4月1日。「エリエールティシュー」の発売が開始された。当時のティシューペーパー市場は、「スコッティー」「クリネックス」といった大手ブランドに加えて中小メーカーも入り乱れており、参入企業は百数十社にものぼっていた。「エリエール」の発売開始は、日本で初めてティシューペーパーが発売された63年から遅れること16年、後発組としてのスタートであった。79年9月には「トイレットティシュー」の発売も開始、同社はついに家庭紙への全面参入に打って出た。
その後の伸びはめざましかった。後発のハンデを跳ね返し、86年には、まずティシューペーパーのトップメーカーに躍進。この時、参入からわずか7年。「1人前の商品に成長するには10年かかる」といわれる業界にあって、“奇跡”ともいえる快挙であった。さらに、2年後の88年にはトイレットペーパーでもトップメーカーの座を勝ち取った。こちらも参入からわずか9年であった。
また、この間に、ベビー用紙おむつ、生理用ナプキンを生産品目に加え、家庭紙4大品種を揃える国内初のメーカーとなった。その後もウェットティシュー、大人用紙おむつと事業分野を拡大し、現在では、同社の家庭紙部門は売上高1,000億円を見込める規模にまで成長している。
4.後発のハンデを逆手にとって
後発というハンデを乗り越え、参入後わずか7年で日本一の座に就いた「エリエール」。その“奇跡”は、後発の利点を最大限に生かした戦略の賜物であった。以下、“奇跡”の原動力となったその戦略を検証していこう。
(1) 先発メーカーを凌ぐ商品づくり
“奇跡”の原動力の第一は、先発メーカーを凌ぐ品質の商品を作り上げたことである。
同社は、幾度となく繰り返したモニター調査の結果から、消費者が、柔らかくしなやかで、かつ破れにくい商品を求めていると分析した。商品のコンセプトさえ決まれば、チップ(製紙原料)からの一貫生産体制を確立していた同社にとって、商品の開発はさほど困難なことではなかった。また同じくモニター調査から、実際に店舗で商品を買うのはほとんどが女性であることを突き止め、女性の目にとまりやすく、「エリエール」のもつ繊細さを表すパッケージデザインを作り上げた。開発に携わったスタッフ全員が、発売前の段階で既に、「エリエール」がトップたり得る商品力を備えていると確信していた。あとは「いかに売るか」、である。北陸担当のある営業所員が記した一通の報告書が当時の状況を端的に表している。「当社の知名度は低く、大手代理店の壁は厚い。しかし、品質・価格は日を追うごとに理解を得られています」。
エリエールは“風の妖精”
同社の家庭紙ブランド名である「エリエール」は、仏語の女性代名詞Elleと、空気、風を意味するairをあわせた造語で、「風の妖精」の意。柔らかくてしなやかな、品質のよさをイメージしている。
(2) 「自ら生産したものは、自らの手で売る」
“奇跡”の原動力の第二は、井川高雄最高顧問(当時専務)が示した「自ら生産したものは、自らの手で売る」という理念と、それを体現した社員一人ひとりの情熱である。
当時の製紙業界では、ある大手メーカーが構築した流通機構に乗せて製品を販売するのが“常識”とされていた。しかしこの販売ルートには、先発の大手メーカーの販売が優先されるという問題があった。同社はこの問題と訣別するため、75年に営業本部を東京に開設、独自の販売網の形成に奔走した。この時確立されたのが冒頭の「自ら生産したものは、自らの手で売る」の理念である。
営業本部設置から4年後の79年。日増しに販売網が拡大されていくさなかに「エリエール」は発売された。「エリエール」の販売にあたっても営業所員自ら店頭に立ち、家庭紙流通のノウハウを積み上げていった。店頭販売には、営業担当以外の社員も多数携わった。その中には、入社以来営業に無縁だった人も多く、「知らない人に『いらっしゃいませ』と声をかけるのさえ苦痛だった」と、苦笑交じりに当時を振り返る人もいる。
ところで、「エリエール=高級」というイメージは、多くの人に定着している。同社は「エリエールティシュー」の発売にあたり、少なくとも一年間は大型スーパーなどに「エリエール」を置かない戦略をとった。ここには同社のイメージ戦略重視の姿勢が表れている。安売り商品の目玉にされ、値崩れ品のイメージを植え付けられることを避けたのである。こうした戦略も、「自ら売る」体制を整えていたからこそ、採り得たといえよう。
(3) 徹底したメディア戦略
“奇跡”の原動力の第三は、自社の弱点(=後発であるが故の知名度の低さ)を認識し、それを克服するために最大限の経営資源をつぎ込んだことである。
優れた商品力と独自の販売網。売るための素地が十分に整った中で次に同社が打った手は、知名度を上げるための徹底したメディア戦略であった。それまで製紙業界ではほとんどみられなかったテレビCMを、積極的に展開したのである。
さらに、家庭紙部門へ参入した3年後の82年からは、「エリエール女子オープン」を開催している。日本女子プロゴルフ協会認定の、今年で22回目を迎えるこの大会は、国内最高の賞金総額をかけた、その年の最後を飾るビッグトーナメントであり、ファンやマスコミの注目度が高い。また、「エリエール」の販売コンセプトである「高級感を持った大衆性」と女子プロゴルフのイメージとがマッチし、年を追うごとに大会の認知度(=エリエールの認知度)が高まり、同社の予想を大きく上回るPR効果を生んでいる。
「エリエール女子ゴルフ」では、協賛スポンサーとの折衝から駐車場やギャラリーの整理、キャディーやスコアボード係に至るまで、全て同社の社員が行っている。参加する社員は総勢500名。その一人ひとりが「私が大王製紙の代表」との心構えで、この大会に臨んでいる。
5.マーケット密着でトップを維持
古い秩序や業界の常識にとらわれず、独自の戦略で年々成長を続けていった同社は、シェアを切り崩されていく既存メーカーからすれば脅威の的であったに違いない。しかし、「独自の戦略」といっても、同社のとった戦略は決して奇想奇略の類のものではない。消費者のニーズを汲み取るとともに販売を強化するための仕組み作り、汲み取ったニーズを生かした商品開発や有効なメディア戦略などであり、企業として当然の戦略である。
高い商品開発力に加え、生産・販売・マーケティング3部門の相互支援による、マーケットに密着した営業戦略こそが、参入後わずか7年でトップメーカーにまで登りつめ、その座を維持することを可能にしている。
6.環境対策でも先駆者的役割
同社は、経営戦略以外でも他社とは一線を画した先進的な取り組みをしている。その一つが環境問題への取り組みである。その姿勢は、環境対策が出来ないなら会社を潰してもよいとまで言い切るほど徹底しており、これまで200億円近い金額を環境対策に投じている。また、その活動は国内だけにとどまらず、89年にはチリで植林事業を開始、93年には地域社会や自然との共生を謳った「DAIO地球環境憲章」を制定した。99年には第8回地球環境大賞で「環境庁長官賞」を受賞、2000年8月には環境管理体制を強化し、社会的信頼性と国際競争力を高めるために「ISO14001」の認証を取得。さらに資源保護と環境保全の観点から、社の最重要課題として古紙利用に取り組み、97年には、業界で初めて古紙100%の新聞用紙の生産をいわき大王製紙(株)で開始した。その後も各種用紙で古紙100%の商品を実用化するなど、環境問題への取り組みにおいても他社を圧倒している。
業界をリードし続ける同社の次の一手は何か、今後も同社の一挙手一投足から目が離せない
(藤田 篤)