シリーズ「愛媛の『名工』を訪ねて」第3回は、古書や絵画の修復を通じて、作品に輝きを取り戻し、新たな命を吹き込む表具師の池邉正義さんを紹介する。
仕事一筋50年
表具師の仕事は、書や日本画などを掛け軸や屏風に仕上げる表装や、虫食いなどで傷んだ古書や絵画の修復など、多岐にわたる。
池邉さんは大分県の出身。16歳で、今治市の表具師だった叔父の宇野秋久さんに弟子入りした。池邉さんは当時の様子を「朝7時から夕方まで仕事、その後学校へ行き、帰ってきてから、夜の11時までもう一仕事」と語ってくれた。仕事一筋の人生の始まりである。
その後、39歳での独立を挟んで、50年間にわたり、掛け物、襖、屏風などの表装一筋、技能の研鑽に努めてきた。池邉さんはこれまでの人生を振り返り「派手なことはなくコツコツと」と言う。
派手さはないが、その技能は確かなものだ。1986年には、一級技能士全国技能大会で1位の労働大臣賞を受賞した。また、2005年には国内最高水準の技能者を称える「現代の名工」として表彰されている。
これまでに修復した作品には、歌川(安藤)広重の「甲陽猿橋の図(木版画)」や、「今治城2代藩主の松平定時肖像画」(今治城展示)など文化財も多数ある。
作品の本来の良さを生かす
池邉さんの修復作業の特長は、作品の本来の良さを最大限に生かしながら手を加えることだ。
作業のコツを尋ねると、「経験だけ、数やっただけ」と答えられた。池邉さんの実直で控えめな性格があらわれている。
修復前と修復後の古書を見れば、表具師が「従来の作品に再び命を吹き込む」との所以がよく分かる。
池邉さんの作業の過程において、驚かされることは、補筆を一切しないことだ。書画の修復においても墨を入れることはない。
池邉さんは、「本来の輝きを取り戻すことは、本来使われていた材料でしかできない」、「補筆すれば、作者の意に反する作品となってしまい作品は死んでしまう」と言う。
今回は、古書の修復作業を取材させていただいた。
修復作業工程
裏打剥[は]がし
表装された書画が、何十年、何百年も保存できるのには、訳がある。1枚の紙では長期の保存に耐えることはできないので、何枚も裏打(裏に和紙を張り合わせて補強)されている。 最初の作業として、裏打されている和紙を丁寧に剥ぎ取っていかなければならない。非常に骨の折れる細かな作業である。 裏打された和紙を水で湿らせて、沈糊[じんのり](澱粉で作られた糊、以下「糊」という)を溶かしながら1枚1枚丁寧に剥ぎ取っていく(固まっている場合、薬品で糊を溶かす場合もある)。 通常の作品は4枚程度重ねて和紙が裏打されている。作業は、数十分で終わることもあるが、糊が固まっている作品では、剥がすのに数時間かかり、日をまたいでしまうこともあるという。
補修(穴埋め)
補修では、「穴埋め」と「染み抜き」が主な作業となる。ここでは、穴埋めについて紹介する。裏打剥がしが終わって乾かしたら、虫食いなどで穴が開いた箇所を、似た種類の和紙で穴埋めする。 穴埋めは、和紙の特性を最大限生かしていく。穴の開いた古書の毛羽立った繊維と、補修用に切り取った和紙の切り口の繊維を丁寧に絡めていく。1本1本の繊維を絡み合わせることで補修部を目立たなくさせる。
(写真では補修箇所を見分けることは困難)
煮出し
補修したままでは、修復箇所が目立ってしまうため、修復部の色付け(周りと同じ色にする)を行う。 そのためには、裏打されていた和紙を水に浸しすすを取り出し(写真(1))、その水(写真(2))を鍋で煮詰め補修部に塗り、周りと同じ色に仕上げる。一切、着色料を加えることはない。 なぜ、そこまで手間を掛けるのか尋ねると、「筆者の思いや、その場所で培った歴史は、その作品からしか取り出すことはできない。手間が掛かっても、この方法を変えるつもりはない」と語られた。
裏打
穴埋め、染み抜きが終わったら裏打をする。 2mほどの掛軸の裏打には半紙程度の大きさの薄い和紙を5~6枚使用する。 最初に裏打する和紙に水に溶かした糊を糊刷毛[のりばけ]で薄く張っていく(写真(3))。 次に糊が張られた和紙を取り棒で引っ掛けて作業台からはがし、裏打する場所まで運び、撫刷毛[なでばけ]で貼り合わせていく(写真(4))。いとも簡単に作業は進んでいくが、素人では、まず取り棒に和紙がのらず、和紙が破れてしまうという。 最後に掛け軸の裏に貼り付けられた和紙を打刷毛[うちばけ]で上から叩き、和紙と掛け軸との間の空気を取り除く(写真(5))。この作業を繰り返して和紙を5~6枚貼り付けていく。裏打が終わると仮張り(裏打した書画などを干す板)に干して2、3日乾かす。 1つの作品でこれら作業を4~5回行い、作品を長期保存できるよう強化していく。裏打が一人前になるまでは積み重ねが大切で10年は必要という。 1回の裏打に要する時間は10分程度と短い。裏打する際には、定規も何も当てずに何枚もの和紙を貼り付けていくが、和紙は寸分の狂いもなく貼り付けられており、まるで1枚の大きな和紙が張られているのかと勘違いするほどである。また、作業中の動きは全く無駄が無く、凛として美しい。
作品の価値に左右されない
池邉さんは、様々な古書や屏風などの修復の依頼を受けるが、その価値はそれぞれの依頼者が決めるもので、その価値を気にすることはな いという。
ただ、書画などは、直筆ではなく印刷物であることもある。そんな時、依頼者には「印刷物ですけど、修復しても構いませんか」と断りだけはしておく。依頼者は「先祖が大切にしていたものなので、お願いします」と答える方が多いという。
次世代への思い
池邉さんは仕事一筋で今までこられ、文化財の修復など数多くの仕事をこなしてきた。
65歳を過ぎて、まだその目の輝きが曇ることはない。「作品に再び魂を入れる作業を通じて元気をもらっている」と言う。
これまで池邉さんは、弟子入りの申込があっても断り続けてきた。しかし、「この技術を何とか後世に残していければ、それが世間への恩返しになる」との思いから、今後は、技能を学びたいという人が尋ねてきてくれれば、積極的に自分の持っている技能を教えていきたいとのことである。
池邉さんは「モノの正しい扱い方を知って、大切に保存してもらいたい」との思いを次のように語られた。
「現代人は新しいモノには注目するが、あまりモノを大切にしない。現在価値のある骨董品は、先代、先々代が大切に扱ったことによって引き継がれたもので、新しいものにはない歴史がある。もし、家の奥に眠っている古書や屏風などがあれば、その価値の如何にかかわらず大切にしてもらいたい。きっとそのモノには作者や先代などの様々な思いがこもっている。そのモノを次世代へ引き継げるのは、残された家族でしかない」
これからも、より多くの作品が池邉さんの手によって新たな命を吹き込まれ、次世代へと引き継がれていくことを期待したい。
(友近 昭彦)