「愛媛の登録有形文化財」の第1回目は、木子七郎が設計した「石崎汽船本社ビル」と「鍵谷カナ頌功堂」を紹介する。
「石崎汽船本社ビル」は三津浜港に面した海岸通り沿いに建つ。本ビルは、大正13(1924)年12月28日の竣工で、建築当時は目前に船着場があり、ビルの屋上からは港に出入りする船をいつでも眺めることができたと言う。当時三津浜港に寄航する船は、この建物を目印にしていたそうだ。
三津浜港は、江戸時代から松山周辺の海の玄関口として栄えていた。「坂の上の雲」の中で、秋山真之が兄・好古に呼び寄せられて、東京の大学予備門に入学すべく、旅立った港でもある。明治36(1903)年には、三津浜~尾道間の航路が開設され本州への最短航路となるなど、四国から本州への窓口として活況を呈していた。
石崎汽船株式会社は、松山藩の御用廻船問屋を前身とする。株式会社となったのは大正7(1918)年8月のことである。当時の店舗や事務所は、同じ敷地に住居が造られていることが多かった。それに対して、この建物は事務所専用である。おそらくこの建物は、県内でも初期の事務所専用のビル建築であったと思われる。
三津浜には、この建物のほかにも同時期に建てられた洋風・擬洋風のオフィスビルが残っている。
建物は、鉄筋コンクリート造2階建(一部3階)となっている。正面は左右対称形で、外壁はタイル張りとなっている。総工費は38,366円で、現在価値に換算すると5億円を超えている。松山市内では愛媛県庁舎に先がけた鉄筋コンクリート造のビルと言われている。
なお、鉄筋コンクリート造が全国に普及し始めたのは、大正12(1923)年の関東大震災後のことである。当時、木子から石崎兵太郎社長へ宛てた書簡には「(前略)建物は、耐震性は無論のこと、防火建築とすることで、窓周りのその他全部を鉄とした関係上、かなりの費用になり…」とあり、耐震防火に気を使っていた様子がよくわかる。実際、隣家が火災に遭ったときも燃え移ることはなく、また、芸予地震でも被害はなかったという。また、電気工事などで壁に穴をあける際には、コンクリートが硬く厚いため、ドリルの刃が欠けてしまい工事業者泣かせになっていると言う。
建物の1階は、当時から変わらず事務所として利用されている。足を踏み入れると高い天井と大理石張りのカウンターが目を引く。文化財の中で働いている社員に話を聞くと、「友達からうらやましがられることがある」、「誇りに思う」などの答えが返ってきた。社員のモチベーション維持にも一役買っているようだ。
当時、2階には役員室と社長室があった。現在、役員室は事務室として利用されている。気品あふれるつくりの社長室には、大理石で造られた暖炉がある(現在は使用されていない)。高い天井には浮き彫りの彫刻が見られ、カーテンも吊り金具も当初のままである。室内の細部にも贅をつくし、ハイカラという言葉の似合う建物である。
装飾品もすべて、設計者の木子七郎が大阪から特注品として調達したと言う。また、自らが現場監督を務めるなど、細部にわたって技術指導を行っていたとのことであり、木子の思い入れを感じる。
犬伏武彦EYE
明治維新後、西洋を見倣った擬洋風建築から建築の近代化が始まった。建築家と呼ばれる専門家が現われ、西洋建築の様式や構造を学び、大工・棟梁は見よう見真似で洋風を倣った建物を造った。それより半世紀経た時、三津の港に建築された石崎汽船本社ビルは建築家・木子七郎による本格的な洋風建築であり、大正ロマンと言われる夢や野望がかき立てられた時代の空気が、そこここに感じられる建築物である。