梅美人酒造は、大正5(1916)年、呉服商を営んでいた上田梅一が、上田酒造場として創業した。昭和24(1949)年に改組し、現在の梅美人酒造株式会社となった。
梅美人酒造を訪れると、目を引かれるのが2階建ての事務所である。昭和6(1931)年に地元の浜上建設が施工したこの建物は、一見すると洋風の鉄筋コンクリート構造に見えるが、実は木造建築である。通りから見える正面と側面にタイル張りの外壁を立てて洋風に見せる、「看板建築」と言われる手法を用いている。日本の伝統産業とも言える酒造業が洋風化、近代化する様子がうかがえ、非常に興味深い。
事務所の2階にある座敷部は、4室合わせて32畳。昭和40年頃までは、新酒ができるとここに客を招き、酒を振る舞っていたそうだ。かつては、米が割り当て制であったため、酒米の安定確保のため、ここで接待をすることもあったと言う。2室並ぶ座敷の床の間・違い棚は、左右対称に設けられている。聞くところによると、西洋建築で用いられるシンメトリー(左右対称)を取り入れたという説と、一度に何人もの接待客が座ることを考慮して、左右どちらに座っても上座になるようにしたという説があるそうだ。
事務所の中を通り抜けると、中庭を囲んで釜場や醸造場などがある。この中庭に出て空を見上げると、青空とともに視界に入ってくるのが、高さ23メートルもある巨大な煙突である。レンガ造りの煙突は、昭和3(1928)年に昭和天皇即位の御大典を記念して建てられた。釜場で米を蒸す際に使用する石炭の煙を逃がすためのもので、八幡浜港に向かって「ウメビジンホン店」と白いタイルで表し、広告塔も兼ねていた。かつては港からも見え、この地域のランドマークとして親しまれていた。
醸造場と酒蔵は、創業以来の施設で、酒造場の核心部分である。醸造場の壁の内部には、断熱材としてもろみの殻が入れられている。その後、昭和のはじめ頃に、貯蔵庫内に冷房設備が取り付けられ、設備面でも近代化が図られている。これ以外にも、もろみを酒と酒粕に分離するしぼり機や貯蔵タンクなど、当時としては最新鋭の近代化設備を数多く導入し、他の酒造元が見学に来ることもしばしばあったと言う。
こうした設備は、産業の近代化を物語る産業遺産として貴重であるが、今も現役で使われているものがほとんどである。建物だけでなく設備の使い方を見ても、モノを大切にするとはこういうことを言うのだと実感できる。
また、酒蔵の白壁の一部には、戦時中に黒く塗られ白黒の迷彩模様にされたところがある。戦時下の緊張を今に伝えるかのように、建物が歴史の一こまを物語っている。
梅美人酒造の建物は、ほかにも精米所や住宅主屋が有形文化財に登録されている。今も現役で大切に使われている建物や設備に触れ、産業の近代化の歴史を感じることで、訪れた人が飲む酒もより味わい深いものになるだろう。
(石川 良二)
犬伏武彦EYE
梅美人酒造の名は、創業者・上田梅一の名をとったもの。16歳のとき、川之石の酒造家に奉公したことが酒造業を興すきっかけになったのだろう。呉服の行商で財を蓄え、酒造業を興す。創業時の酒造石高は、220石、昭和8年には2,350石にまでなった。銀行にも見える建物、青空に映えるレンガ造りの煙突…それら一つ一つが、企業の発展と人の思いを語っている。そしてまた、酒造蔵やしぼり機が今も大切に使われていることは、家業を継がれた5代目社長・上田英樹さんの酒造りへのこだわりでもあり、先祖の心意気を受け継ごうとする気持ちの表れでもある。
(松山東雲短期大学 生活科学科生活デザイン専攻 特任教授)