「大洲市役所長浜支所」は、伊予灘に注ぐ肱川河口に位置する長浜町の市街地に建つ。竣工は昭和11(1936)年で、県内市町の庁舎としては現役最古となった今でも、立派にその役目を果たしている。
建物は木造2階建ての美しい左右対称形で、正面玄関上部に飾られた半円形のモチーフが目を引く。外壁は大半がモルタル塗りの吹き付けだが、腰部分(下部)には御影石を貼るなど、昭和初期の洋風建築の特徴が見られ、当時としてはかなり豪華な建物であったようだ。
いざ内部に足を踏み入れると、思っていたよりも現代の建物に近い印象を受けた。その感想をお伝えすると、「実際に使っていくなかで不便なところは手を加えています」とのこと。ただ、後で案内してもらった支所長室(旧町長室)は、壁や天井、置かれている調度品に至るまで、かつての名残を色濃くとどめていた。また、当時収入役の席があった場所は、金庫の重みで床板が抜け落ちないよう、一部をコンクリートで補強していたと言う。その痕跡は今も1階事務室内に残っている。
こうした文化財で働くことについて職員の方々に話を聞くと、「古い建物ゆえの不便さはあるが、木の温もりや優しさを感じることができる」との答えが返ってきた。コンクリートや鉄筋の建物にはない、まさに木造建築特有の良さを十分に肌で感じているからこそ、こうした言葉が出てくるのだろうと思う。
長浜町は戦前、養蚕業や製糸業などで栄えるとともに、肱川の豊富な水量と緩やかな流れを生かした海運業が発達。木材等の集積地として活況を呈していた。
その経済力を生かして、庁舎が完成するちょうど1年前に造られたのが、「長浜大橋」である。ちなみに総工費は29万円、現在価値に換算すると約20億円という巨額の費用が投じられたそうだ。当時はまさに長浜町の全盛期。相次ぐ大型公共投資は、その繁栄を物語るシンボル的存在であったのだろう。
長浜大橋は、全国にある約70万の道路橋のうち、近代に造られた現役唯一の可動橋として知られている。大型船舶が行き来する度に橋の中央部を開閉し、開通から18年間の開閉回数は62,433回、通過船舶数は87,230艘に及んだそうだ。しかし、その後の肱川における海運業の衰退とともに大型船の通過が減少。橋を開閉する回数は激減し、今では週に1度の定期点検時のみとのことである。
昭和52(1977)年、肱川下流に「新長浜大橋」が造られた。その時、本来なら役目を終えた旧橋は撤去されるのだが、その希少性と貴重さを踏まえ、町民の生活道路橋として残されることになったそうだ。実際に目にすると、往来する車や人の流れがゆるやかで、長浜の土地柄が透けて見えるような穏やかさを持つ橋であった。地元では今も“赤橋”の愛称で親しまれている。
今回紹介した「大洲市役所長浜支所」と「長浜大橋」は、建造物として評価されているだけではない。長浜町の歴史を今に伝える語り部として、重要な役割を果たしてきたのではないだろうか。今後は地域とともに、新たな歴史を刻んでいくものと確信している。
(河野 静香)
犬伏武彦EYE
「我が役場庁舎は古き建物で狭隘を告げ事務にも支障し、腐朽甚だしく危険を感ずるほどだったが前町長西村氏は他の学校とかを新築の後に役場を新しくすべきであるとの説をたてられ今日まで来たものである。…学校の新装等もなったので懸案もここに解決したわけである。新しき木の香に酔うことなく、清新の気をもって我々の心として今後ますます町の興隆発展に邁進することを落成のよき日にあたって誓いたいと思う次第である」新築当時の喜びを伝える町長・黒田直保氏の言葉である。(海南新聞記事より)
(松山東雲短期大学 生活科学科生活デザイン専攻 特任教授)