1974年の炭鉱閉山に伴い、無人島となった長崎市沖の軍艦島。09年4月に上陸が解禁され、「廃墟の島」として注目を集めている。今回は産業観光とまち歩きを軸に、長崎市の観光振興の取り組みを紹介する
「軍艦島」とは?
軍艦島は正式名称を「端島」と言い、長崎港から約19kmの沖合に浮かぶ、周囲約1.2kmの小さな島である。
島の歴史は1810年の石炭発見に始まった。当時は佐賀藩が小規模な採炭を行う程度だったが、1890年に三菱が買収し、本格的な海底炭鉱として操業が開 始された。その後、出炭量に比例して人口も増加。当初は現在の3分の1ほどの大きさであった島の面積は、6回にわたる埋め立てによって拡張されたそうだ。 また、1916年には日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が建てられるなど、狭い島で多くの人が暮らすための工夫もなされてきた。その結果、 1960年には人口約5,300人、人口密度は当時の東京都の9倍強と、最盛期を迎えた。
当時、島には小中学校や警察、郵便局、商店、映画館、 パチンコ店、病院、共同浴場、プールなどの施設が整っており、生活のほとんどを島内で賄うことができた。「軍艦島」との愛称は、狭い島に高層の建物が林立 する当時の島の外観が、軍艦に似ていたことから付けられたそうだ。
しかし、エネルギーの需要が石炭から石油へと移るなかで、出炭量、人口ともに減少の一途をたどり、1974年1月、ついに端島鉱が閉山された。その3ヵ月後には無人島となり、現在に至っている。
軍艦島を観光資源に
閉山後、静かに朽ちていた島が転機を迎えたのは、長崎市と旧高島町が合併した05年のことである。長崎市は近代化産業遺産としての島の価値に着目し、観光資源として活用していくことを決めた。
ただし、テーマはあくまで”風化の過程を見せる”こと。現存する建物には手を加えず、安全に上陸するために必要最小限の施設(着岸時の桟橋や見学通路など)のみを、総額1.9億円をかけて整備した。
観光形態としては「朽ち果てた島を見るだけ」という特殊なものだが、”廃墟ブーム”ということもあり、上陸解禁初年度(09年度)は約75,000人が訪 れた。これは、市の当初予想(年間25,000人)の3倍に当たる数で、注目度の高さがうかがえる。(財)ながさき地域政策研究所の推計によると、軍艦島 観光が長崎市にもたらした経済効果は、上陸解禁後の1年間で約17.8億円に上るそうだ。
実際に上陸してみると・・・
今回私も取材を兼ねて「軍艦島クルーズ」に参加した。当日は晴天、東京からの修学旅行生 30名を含む33名で出航した。島の全景が小さく見え始めたころ、船長から「風や波の状態によっては上陸できない」とのアナウンスがあった。島は波の高い 海域にあるため、上陸の可否は島の近くまで行った段階で船長が判断するという。ちなみに、09年度の上陸率は約7割だそうだ。容易に辿り着ける場所ではな いからこそ、運よく上陸できた私の喜びもひとしおであった。
ツアーガイドは、元島民で現在はNPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」会長の坂本 道徳氏。写真や資料を交えながら、石炭産業の変遷や島の歴史について説明があった。また、7階建てのアパートにはエレベーターが無かったこと、炭鉱労働者 のための共同浴場は浴槽がいつも真っ黒だったこと、島に少しでも緑を増やそうと、岸壁を緑のペンキで塗っていたこと…そんな当時のエピソードを聞きなが ら、36年前までここに生活の営みがあったということを確かに感じた。
1時間あまりの上陸時間のなかで、最も印象に残ったのは「軍艦島=日本の未来の縮図」とい う話である。近代化を夢見て希望にあふれていた島が、資源の枯渇とともに置き去りにされたという事実は、私たちの未来に対する警鐘なのかもしれない。人が 去った後の島は自然が豊かになり、周囲の海もきれいになったと言う。廃墟の島が伝える無言のメッセージに、改めて考えさせられることも多かった。
保存と活用の狭間で
観光客が順調に集まっている一方、観光資源としてどのように保存していくかという課題も残 されている。島内の建築物の多くは、完成から50年以上が経過しており、現状を維持するには何らかの補強工事が必要とされている。ただ、軍艦島は市が世界 遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成遺産であり、安易に手を加えることはできない。そうなると、観光資源として活用することは難し く、市としても頭を悩ませているのが実情だと言う。保存と活用のバランスをどう取るのか、今後の舵取りが注目される。
“さるいて”楽しむ長崎のまち
軍艦島のみならず、長崎市内には多くの観光スポットが点在している。それらを結び付け、長崎の知られざる魅力を発信している「長崎さるく」につい
て紹介したい。
「さるく」とは、長崎弁で”ぶらぶら歩く”という意味で、「長崎さるく」とは様々なテーマに沿って設定されたまち歩きコースを楽しむことである。自由に散策する「遊さるく」、地元ガイドと一緒に歩く「通さるく」、専門家の解説や体験メニューも盛り込んだ「学さ るく」と、3通りに分かれており、50以上のコースが設定されている。また、団体や修学旅行での利用など、個々のニーズに合わせた「オーダーさるく」もあ る。旅行形態やそれぞれの興味に応じて、自由に選べることはさるくの大きな強みでもある。ちなみに、今年はNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送があったこと から、龍馬関連のスポットを巡るコースが人気のようだ。
「長崎さるく博’06」をきっかけに
こうした取り組みのきっかけとなったのが、2006年に開催された「長崎さるく博’06」 である。日本初のまち歩き博覧会として、212日間の会期中に延べ1,000万人以上を集客するなど、着実に成果を残した。終了後も継続を望む声が数多く 寄せられたことから、2007年より「長崎さるく」として再スタートし、現在に至っている。
さるくの特徴は、市民が企画・実施するという”市民 主体”のスタンスが貫かれていることである。まち歩きコースは全て市民の発案によるもので、公募時には数百件の応募があったそうだ。また、さるくの運営を 支えるボランティアガイド登録者は現在400名以上、毎年30名前後の人が研修を受けて新たにガイド登録していると言う。「自分たちが観光都市長崎を盛り 上げていく」という市民の熱意が、さるくの取り組みの随所に感じられた。
私も“さるいて”みました
これは実際に体験してみなければ、ということで、ガイドと歩く「通さるく」に参加した。 コースの定員は15名、参加料(ガイド料)は500円である。私が参加した「龍馬が見上げた長崎の空」というコースは、土曜日ということもあり、定員いっ ぱいという盛況ぶりであった。当日の参加者は、3歳の男の子から60歳以上の方まで幅広く、中には東京からという人もいた。距離にすればわずか2kmの道 のりだが、ガイドの説明を聞き、他の参加者との会話を楽しみながら2時間半かけてじっくり歩いた。
歩いていると、すれ違う市民の方が会釈や挨拶をしてくれることに驚いた。まち歩きなので、 当然市民の方々の生活スペースに入るわけだが、嫌な顔一つされず、むしろ歓迎されているように感じた。ガイドの方の説明はもちろんだが、そういった市民の おもてなしの姿勢は長崎の魅力の一つであり、まち歩きの満足度が高まったことは言うまでもない。
新たな試み“タッチペンさるく”
とは言え、ガイド付きの「通さるく」や「学さるく」は日程や時間が決まっており、予定が合わない方もいるかもしれない。そういった人たちのために、”タッチペンさるく”という新たな試みがスタートしている。
参加者は専用マップとタッチペン、ヘッドホンを500円でレンタルする。あとはペンで地図に触れると、音声案内が流れるという仕組みである。解説者には地 元放送局のアナウンサーや芸妓、長崎市長と個性的なメンバーが名を連ねており、マップ片手のまち歩きが一層楽しいものになるだろう。
“人”の魅力を感じる旅
軍艦島と長崎さるく、どちらにも通じるのは「わがまち」への想いを観光客に伝えようとする 市民の強い気持ちである。実際に足を運んでみて、こうした”人の魅力”が産業観光やまち歩きという全国各地にある観光素材を、一味違う長崎ならではのもの にしているのだと感じた。市民が作りだすまちの魅力を味わいに、長崎へ足を運んでみてはいかがだろうか。