仏教に“福田”という思想があるのをご存知だろうか。福田、すなわち「田地が物を生むように、仏や僧に供養することで福徳が生まれる」という意味を持つ寺が伊予市上吾川、谷上山の登り口にある。
福田寺は、臨済宗妙心寺派の末寺で、山号は「興徳山」、「釈迦牟尼仏」を本尊とする。
福田寺の建つ地は、寛永12(1635)年、替地(領地交換)によって松山藩領から大洲藩領となった。替地から32年後の寛文7(1667)年に、大洲二代藩主・加藤泰興公の命により当寺は創建された。替地と結びついた寺の創建は、大洲藩にとって伊予市が重要な土地であったことを表し、伊予市が大洲藩領であることを内外にアピールするとともに土地の安泰を願ったものと考えられている。今回のキーワード『大洲』の所以はここにある。
登録有形文化財である本堂、山門、隠寮(隠居した僧侶の住宅、通称『通玄庵』)のほか、庫裏、聖徳太子を祀る太子堂などが調和よく配置されている。なお現在の伽藍は、第八世梅岫和尚の天明年間(1781~89)の再建によるもので、その後も幾度か修復がなされたが、ほぼ原型を保っていると言う。
「本堂」は典型的な禅寺の様式で、入母屋造りで本瓦葺の屋根は、大きく堂々とした構えでありながら、当時の軽やかな気風を象徴した造りが特徴だ。本堂内部の正面には、本尊の釈迦牟尼仏、向かって左に加藤泰興公の像、右に福田寺開山の盤珪禅師の像がある。本堂内の正面にかかる幕や屋根瓦などの至る所に大洲藩加藤家の家紋である「蛇目紋( ◎)」が配されている。
『通玄庵』は、茅葺屋根の20坪ほどの小さな建物で、上の間・表の間・仏間・茶の間の四室で構成されている。「上の間」は、住人が一日を過ごし、書見や瞑想などを行う場所であったと考えられ、庭に面して据え付けられた出文机には墨の痕が今も残っている。また、天井に描かれた龍は、当時の流行を反映しているそうだ。
こうして見ると、『通玄庵』は、生業のための農業住宅とも身分や格を重んじた武家住宅とも異なる。起居、食事、就寝といった日常を営むための住宅という現代住宅のあり方に通じており、日本の住宅建築に影響を及ぼした建築の実例として高く評価されている。
確かにこの庵には、住まうために必要なもの以外の余分が一切無い。簡素で品のある佇まいのなかに、凛とした空気が漂うのを感じて心が洗われる思いがした。
かつて、伊予市街地から続いていたという旧表参道が『通玄庵』の裏手にある。当時の参拝者に思いを馳せながら少し歩いて登ってみた。竹林を抜けて急な階段を登り、左に曲がるとふいに山門が現れる。その静寂をたたえた雰囲気に、思わず立ち止まりしばし惚けたように眺めた。そこから山門へ至る途中、左手には『通玄庵』があり、当時は、隠居した僧たちの暮らしを垣間見ることができたかもしれない。こうした演出と計算し尽くされた建物配置の妙も、新しい領地を治めるにふさわしい風格を人々に印象付けたことであろう。
(森 夕紀)
参考文献
犬伏武彦(2003):民家と人間の物語-愛媛・古建築の魅力-
犬伏武彦EYE
福田寺の歴史は寛文7年(1667)に始まる。寛永12年(1635)、大洲藩と松山藩との間で行われた替地(領地交換)によって、郡中(現在の伊予市)は大洲藩領となった。その32年後、大洲藩主・加藤泰興は福田寺に山林・寺地を寄進、加護を与えている。福田寺は伊予灘を一望する高みにあり、本堂・山門・隠寮(隠居した僧侶の住居の意)などの建物が大洲藩ゆかりの歴史を伝える。なかでも「通玄庵」と呼ばれる隠寮は、住宅史の視点から見て貴重な意味をもつ。書院が床・違い棚と離れたところに設けられ、座敷飾り(床・違い棚・付け書院を一体とした造り)が完成する以前の出文机(禅僧の書見の机)の形式が見られる珍しい建物なのである。
(松山東雲短期大学生活科学科生活デザイン専攻特任教授)