「河内家住宅」は、予讃線内子駅の北東2キロメートルの位置にあり、国道56号(旧大洲街道)に沿って流れる中山川の東岸にある平地に敷地を構えている。今回、河内家住宅のうち、主屋・土蔵・井戸の3件が有形文化財に登録された。
河内家は、江戸時代末期に大坂から移住し、現在の大洲市新谷に本家を構え、地主農家として生計を立てていた。明治初期には油の売買と木蝋の生産・輸出で財を築き、河内正行が内子五百木にあった江戸後期に建築されたと推定される高橋家の庄屋の屋敷を購入して移住し、現在の主屋等を建築したと伝えられている。その後、数度の増改築を経て現在に至っている。
河内家主屋は、神棚に祀られている明治27年(1894年)の祈祷札から、この頃に建築されたと考えられている。
土間にある大黒柱や屋根を支える梁はひときわ大きい。建築当時、近くを流れる中山川をせき止め、下流から上流に向かって多くの大木を屋敷まで運び上げたという話が残されている。
建物の1階部分の面積は195m2。続き間とした座敷のほか、炊事場や板の間など多くの部屋を設けており、周辺の住宅と比べても、ひときわ大きな存在感を放っている。
屋根は入母屋造・桟瓦葺で、軒先を2段に構えている。上段、下段ともに軒を深く出す「せがい造」とし、堂々とした家の外観をつくり出 している。
河内家主屋は、大型農家の規模と形式を持ち、明治中期におけるこの地方の豪農の暮らしぶりをうかがい知ることのできる「造型の規範」として貴重な建築物である。
次に、河内家土蔵は主屋の南東に建つ面積60m2の蔵で、味噌蔵・道具蔵として使われていた。木造2階建、切妻造・桟瓦葺で北面に庇がある。建築年は不明であるが、主屋が建てられた明治中期と考えられている。豪農の土蔵として、建物の内外ともに丁寧に造られた建築物である。
最後に、主屋の南に位置する河内家井戸は、屋形の建築年代は不明であるが、土蔵と同様に明治中期の建築と考えられている。切妻造・桟瓦葺で、梁の上に棟束・母屋束を立てて小屋組とし、野地には竹材を使う珍しい構造となっている。井戸の大きさは四辺が約1.3m、高さが約0.5m。現在はモーターで水をくみ上げているが、当初は釣瓶井戸の形式であったようだ。洗い場には青石と呼ばれる大きな平石を使っている。
河内家住宅は、主屋・土蔵・井戸を合わせて、明治期の農家の生活、豪農の住まいを今に伝える貴重な文化財であると言える。
(岡田 栄司)
参考文献
八日市・護国町並保存センター(内子町)
犬伏武彦EYE
内子へと車で向かうたび、蛇行する中山川を隔てて見える一軒の民家に目をとられていた。二段の深い軒をもつ堂々とした家の姿に見惚れていた。五百木の河内家だった。念願がかなって今回、家の隅々まで見せていただいた。木材は小田や久万から小田川の水運を利用し、そして中山川を遡り、流れをせき止め一段高い屋敷まで運び上げたと言う。建築された年代は明治27年(1894年)と考えられている。明治27年といえば、内子の木生産絶頂期、その頃の豪農の暮らしぶりを伝える建築である。そしてまた、「河内家」のような家屋敷を持つことが、人々の夢であり願いであった。
(松山東雲短期大学生活科学科生活デザイン専攻特任教授)