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愛媛の登録有形文化財

山内家住宅離れ(四国中央市)

2011.05.01 愛媛の登録有形文化財

「愛媛の登録有形文化財」の第8回目は、4月に有形文化財に登録された、四国中央市の「山内家住宅離れ」と、内子町の「河内家住宅」を紹介する。
 「山内家住宅離れ」のある四国中央市土居町 入野は、江戸時代から町の中心地そして宿場町として大いに栄えていた。明治時代、山内家は屋号を「田辺屋」と称し、醤油製造や質屋、雑貨商など多角的な商いを行って多くの使用人を抱える、町では有数の家柄であった。
 「離れ」を建築した山内遊助は、7歳の時父 親の吉次と死別し、高等小学校を卒業後に家業を継いだが、世の中の不景気も重なって、商売はなかなか順調にいかなかった。日露戦争後、遊助は家運をばん回するために身を粉にして働くと同時に経済に関する学問も修め、大正8年には金融会社である常盤無尽株式会社を設立し、土居を中心に川之江・三島から新居浜にまで支店を開設するに至った。
 また、遊助は長期にわたり村議会議長を務め、土居村信用組合を創設して理事長に就任するなど、村の発展に大きく貢献した。
 そんな遊助の道楽が「建築普請」であった。その一つが大正15年(1926年)に建てられた「離れ」である。この建築にあたって、遊助はお抱えの大工を伴い、県内のめぼしい家屋はもとより、遠くは京都方面まで足を運んで建築の研究をしたと言う。
 千鳥破風の玄関は堂々とした姿で人を迎える。玄関を入ると、玄関の間、前座敷と呼ばれる二之間、上之間(座敷)が東に面して並んでいる。
 「皇族が土居町を訪問する際に、迎え入れるにふさわしい建築普請にしたい」との遊助の希望により、二之間・上之間の造りは貴人を迎える場所として作られている。
 床の間・付け書院の欄間は漆塗りにまき絵を施し、杉板に金粉を吹き付け、家紋を陽刻・陰刻で彫るなど、建築の装飾というよりは工芸品のような趣がある。

また、銀ぱくで仕上げられたふすまの縁も漆塗りで、総引手ふさひきてには朱色の房が下がっており、京都にある二条城書院の上段の間にいるような印象を受ける。
 木材は土佐・阿波方面や大阪の問屋まで足を運んで選んだと言われ、屋久杉の天井、糸柾いとまき(細くまっすぐ、密に通った木目)の柱、紫壇したん黒壇こくたんなど、最高級の木材をふんだんに用いている。
 玄関の脇には「隠居」と呼ばれた6畳間があり、隠居した遊助の妻が一日を過ごした部屋と伝えられている。面皮の柱に丸窓を設けた部屋の雰囲気は柔らかく、苦労をともにした妻に対する思いやりが感じられる。
 なお、有形文化財には「離れ」とともに「倉」も登録された。明治30年(1897年)に建築されたもので、切妻きりづま造・桟瓦葺さんかわらぶきの木造2階建の建物である。
 建物の上部には福田幸平氏の作という「玉をつかんだ龍」の鏝絵こてえ漆喰しっくいの上にこてで描いた絵)が飾られており、明治から大正時代の山内家が しのばれる建築物となっている。

(岡田 栄司)

犬伏武彦EYE

「新築」と呼ばれた山内家住宅離れの建築普請を請け負った棟梁とうりょうは、地元・土居町の鈴木伊世吉。小屋組の真束に打ち付けられた棟札にその名が記されている。「板図」も残されていた。「板図」とは、柱の位置やはりの架け方を印した大工の施工図であるが、棟札とともに残されていることは珍しい。「大正十二年旧三月起工」と書かれ、玄関の柱の位置を示す番付は、「鶴、亀、松、竹」であった。良き普請にしようという大工の心意気、建築主・山内遊助の思いに応え、山内家の幸せと繁栄を願う気持ちが表れているように感じた。有形文化財として登録された陰には、そんな人間の存在も浮かんでくる。

(松山東雲短期大学生活科学科生活デザイン専攻特任教授)

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