四国の城シリーズ第2回目は、南海の名城と讃えられる高知城を紹介する。
高知城の天守は、全国でも12しかない貴重な現存天守のひとつである。「現存天守」とは、明治期以前に建てられた天守のことで、明治以降に復元された天守とは一線を画す。
山内一豊※が建てた創建時の高知城は、享保12(1727)年の大火により追手門と一部を残して全焼した。焼失後すぐ復旧にあたったものの財政難もあって、全体を再建するまでに25年もの歳月を要したそうだ。
その後、明治維新によって廃城となり、本丸と追手門以外は全て取り壊された。しかし、天守と追手門がそろって現存しているのは稀で、無理なく両方を一枚の写真に収められるのは、全国でも高知城だけという。
※「やまのうちかずとよ」と呼ばれることが多いが、本来は「やまうちかつとよ」が正しいらしい。
高知城築城までの歴史
高知城がある大高坂山を最初に拠点としたのは、南北朝時代に南朝を支持した大高坂松王丸であった。ここで北朝方との激しい攻防が繰り広げられたが、あえなく陥落した。次にこの地に城を築こうとしたのは、戦国時代の地方豪族・長宗我部元親であった。土佐を統一し、四国統一目前に秀吉に敗れた元親は、岡豊城から大高坂山に移され築城に取り組んだ。しかし、度重なる水害に悩まされ、また秀吉の朝鮮出兵に応えるべく、わずか3年で浦戸城に本拠を移すこととなった。
「高知」地名の由来
慶長6(1601)年に土佐に入国した土佐藩初代藩主山内一豊は、城が鏡川と江ノ口川に挟まれる場所に位置していたため、慶長8年、それまでの「大高坂山」という地名を「河中山」と改めた。
しかし、大雨が降るたびに2つの河川が氾濫し、城下は幾度となく水没した。一豊の没後築城を引き継いだ2代藩主・忠義は、そうした水害の経験から「河中」の字を嫌い、慶長15(1610)年の城郭完成とともに「高智」と改名した。これが現在の地名「高知」の始まりとされる。
築城者・山内一豊(1545~1605年)
長宗我部元親の後、大高坂山を再び築城の地に選んだのは、山内一豊であった。一豊は、戦国の世で信長、秀吉に仕え、関ケ原の戦いで家康に具申した策が功績と認められ、遠州掛川6万石から土佐10万石(2代・忠義の時に20万石に評価替えされ、以後幕末まで続いた)に封ぜられた。
一豊は、慶長6(1601)年に普請を開始。完成までの間、一豊は浦戸城に滞在し、足繁く築城現場の視察に出かけた。その際、一豊は、同じ装束を着た5人の家来と馬に乗って視察したと言う。この家来5人は、長宗我部の遺臣による襲撃を警戒しての影武者であり、一豊とこの5人の家来は「六人衆」と呼ばれたそうだ。
幕末の志士を生んだ郷士制度
土佐一国を賜った一豊の入国に際し、前領主・長宗我部氏の遺臣たちは浦戸城の明け渡しに抵抗する一揆を起こす。一豊は武力で一揆を鎮圧する一方、従来の領地政策を継続するといった懐柔策を行って、長宗我部氏遺臣らを押さえ込んだ。
一豊の入国時のこうした軋轢が、後に坂本龍馬ら明治維新の立役者たちを生むことになる。その原動力となったのが、2代藩主・忠義の時に導入された「郷士制度」である。郷士制度とは、それまで弾圧していた長宗我部氏の遺臣たちを、「郷士」として取り立てるというものである。郷士とは、武士でありながら城下町でなく農地に暮らし、若干の武士的特権を認められたものを指す。しかし、武士とは名ばかりで、下級武士として厳しい差別を受けた。こうした土佐独特の身分制度によって軽んじられてきた郷士たちが、幕末の志士として活躍することとなる。
名築城家・百々越前守安行
「水を治める者は、国を治める」。その言葉どおり、当地での名城誕生には、治水と縄張り(設計)の綿密な計画を立て、難工事を指揮できる有能な人物の存在が不可欠であった。そこで白羽の矢が立ったのが、百々越前守安行である。百々は、一豊から大坂で召し出され、築城総奉行に任じられた。
百々の治水のプランは、まず近隣の丘陵を切り崩した土で盛り土をして大高坂山の標高を上げるとともに、南側を流れる鏡川の西端から東端まで「大堤防」を構築し、さらに北側の江ノ口川にも堤防を築くという壮大なものであった。
城の普請を開始すると、百々は現場に粗末な一軒家を建てて、普請中そこに寝泊りし、人夫同様に鍬を取ることさえあったという。
こうした苦労のかいあって、水害をもたらした2つの河川を天然の外堀とする城が完成し、その城下には東西に広がる城下町が発展した。
戦国の息吹を残す旧式天守
高知城天守は、外観四重(内部3層6階)の望楼型で、国の重要文化財に指定されている。
江戸時代につくられたものとしては、旧式(安土桃山時代の様式)とされる。これは再建時に、焼失した旧式天守をそのまま再現したためであり、創建者である藩祖・一豊を重んじる心がうかがえる。
天守の最上階には、人が歩ける廻縁がめぐらされ、擬宝珠のついた黒漆塗りの高欄がつけられている。この廻縁から、城内とその周囲に広がる街を一望することができる。幕末時の土佐藩15代藩主・山内豊信(後に容堂と号す)が生まれた屋敷跡や、元禄時代から続く街路市(日曜市)が開かれるメインストリート「追手筋」、土佐藩代々家老・五藤家の子孫が営む書店なども、ここから見ることができる。
本丸御殿「懐徳館」
本丸の全ての建物(本丸御殿、東西の多聞櫓、くろがね 黒鉄門など)が現存しているのは全国でも高知城のみである。なかでも、天守に隣接して建っている本丸御殿は、完全な形で残る全国唯一のもので、明治以降、「懐徳館」と呼ばれている。
懐徳館からは天守に直接行けるように廊下が渡してあり、懐徳館は藩主が来客をもてなすための座敷(対面所)として用いられた。
館内には、波をイメージした斬新で洗練されたデザインの欄間など、独自の工夫が随所にみられる。また、従者(警護)用の納戸構えを備えており、徳川時代初期における大名の居住様式を垣間見ることができる。しかし、藩主が実際に居住の場としたのは、天守でもこの本丸御殿でもなく二ノ丸御殿であったそうだ。
軍事拠点としての城
高知城は、軍事拠点としてつくられた典型的な平山城である。
不思議なことに、高知城は、どこにいても天守がすぐそこにあるように見えるため、容易に天守に到達できそうに思えてくる。
しかし、実際に城の中を歩くとよくわかるが、城内に入ると自分がどこにいるのか、建物や道の配置がどうなっているのか把握するのは難しく、敵は容易に天守に辿り着けない。
城内のほぼ中腹にあたる鉄門跡の階段を越えると、敵は目の前にある詰門へ自然と誘導される。門前に立ったが最後、「枡形」と言われる構造により、敵は三方向から矢と鉄砲の嵐に見舞われることになる。さらに、詰門を通過できたとしても、天守には通じておらず、天守に行くための正しいルートは、一旦引き返し、天守に背を向けて石段を登らねばならないのである。
筆者自身も、天守から俯瞰してはじめて、戦のために計算された複雑な縄張りを理解することができた。
高知城独自の遺構の数々
高知城には、全国でも珍しい遺構や独自の工夫が多くみられ、その文化財としての価値は高い。すでに紹介した懐徳館の欄間をはじめ、「忍び返し」や「石樋」、天守や追手門の軒先を反り返らせた「本木投げ工法」といった独自のも のがある。
「忍び返し」
天守北側の壁と石垣の境に、先が鋭く尖った長い鉄の串が、並んで真横に突き出している。全国でも高知城天守にのみ現存している。
「石樋」
石垣内部に泥水が入って石垣が崩れないようにする工夫で、雨が多い高知ならではの機能である。城内に設置された石樋から水路を使って排水した。現在16ヵ所が確認されている。
高知の気風を今に伝える
天守最上階に、筆書きの立て看板がある。そこには、“落書き・喫煙・飲食・昼寝を禁ず”という注意書きがある。注意するほど天守で昼寝をする人がいるのだろうかと不思議に思ったが、なんともおおらかな土佐らしさが感じられる。
こうした土佐らしさは他にもある。天守内部に、築城に携わった者たちが築城年月や名前などを書き記した「棟札」が展示されている。また、改修時に、「大呑寅蔵」や、「禁酒したれど酒屋みれば足がしとふあとあゆまれぬかな」と書かれた落書きも見つかっており、酒好きで開放的な土佐人の茶目っ気が感じられる。ちなみに、15代土佐藩主・山内容堂も「鯨海酔侯」の号も用い、大酒呑みで知られた。高知城近くの山内神社には、容堂が座して陽気に酒を飲んでいる姿の銅像がある。
城内・城下を散策し高知の歴史や文化に触れた後は、ひろめ市場や酒場で地元の人たちと酒を酌み交わして、高知の気風を肌で感じてみてはいかがだろうか。
(森 夕紀)
参考文献
「日本100名城の歩き方」日本城郭協会
「築城400年高知城」土佐山内家宝物資料館
「四国の城と城下町」井上宗和
高知城データ
所在地 | 高知市丸ノ内(高知公園) |
---|---|
別名 | 鷹城(たかじょう) |
地形 | 平山城 |
築城者 | 山内一豊 |
遺構 | 天守、懐徳館、黒鉄門、追手門など15件 (国指定重要文化財) |