くろーずあっぷ「四国の城シリーズ」の第4回目は、香川県丸亀市にある丸亀城を紹介する。
丸亀藩の歴史
丸亀藩は、寛永17年(1640年)、当時讃岐国を領していた生駒氏が御家騒動により改易となったことに伴い、翌年、讃岐が東西に二分され、西讃岐の領主として、山崎家治が入封したことに始まる。その後、山崎、京極の2大名によって治められたが、最も長期にわたったのは京極家である。
昨年のNHK 大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」に登場する浅井三姉妹(茶々、初、江)の次女・初が嫁いだのは、関ヶ原の戦いなどで戦功をあげた京極高次で、その孫の高和が丸亀京極家の始まりである。昨年は、ドラマ放映の効果もあって丸亀城を訪れる観光客は、過去最高を記録した。
小藩の名城
丸亀城は、標高66mの亀山にあり、生駒親正と子の地蔵ヶ嶽によって慶長2年(1597年)から築かれた。その後、一国一城令により、城を一旦廃したあと、山崎家治が、寛永20年(1643年)に幕府から銀300貫と、参勤交代の免除を得て、城郭を再建し、基本形が完成した。その際には、他に大坂城修復時の残石を拝領したともいわれている。
丸亀城は、高い石垣をめぐらせた名城である。6万石の小藩ながら、なぜ、このような立派な城が出来たのか? 案内して下さったボランティアガイドの高畑昭さんによると、「幕府が瀬戸内海の海上交通を監視する拠点と位置づけたこと、丸亀沖の本島に多くいたといわれる隠れキリシタンに目を光らせる必要もあったから、このような立派な城が築かれたようです」とのことであった。
大手門から見返り坂を上る
表門の大手一の門、大手二の門と、いずれも国の重要文化財に指定されている門をくぐる。2つの門で形成される「右折れ枡形」は、敵が直進して攻め込めない構造となっている。一の門は太鼓門とも呼ばれ、水曜日や年末、雨天時などを除き、正午になると「時太鼓」が打たれ、市民に時を知らせている。
大手門から三の丸に向かって見返り坂を上る。150mほどの急坂で、時々立ち止まって振り返りたくなることから、いつしかそう呼ばれるようになったそうだ。
高さ日本一の石垣
丸亀城の石垣は、内堀から本丸へ向け、4層、高さ60mを誇る。単独では大坂城の本丸が33mで日本一だが、本丸と二の丸、三の丸、堀などの石垣を合わせた「合計60m」は正真正銘の日本一とのこと。その石垣の描く美しい曲線は「扇の勾配」と呼ばれている。特に三の丸の石垣は、石の芸術品として風格を漂わせるとともに、圧倒的な存在感があり、丸亀城最大の見所である。
石垣の石には、約140個の刻印が確認されている。生駒氏の刻印をはじめ、かつて西国の大名が公儀普請として築いた大坂城でも見られる刻印が丸亀城で見られる。
石垣と井戸にまつわる伝説
丸亀城の石垣には伝説が残っている。石垣を積んだ石工の羽坂重三郎は、石垣を築く名手だったとされる。ある日、殿様が「この石垣は、鳥の他に越せるものはいないほど立派な出来だ」と褒めたところ、重三郎は「尺あまりの棒を下されば、容易に登ることができます」と言って、垂直に近い石垣を登って見せた。それを見た殿様は、もし重三郎が敵に通じたら困ると思い、二の丸にある井戸の深さを測るよう命じ、中に入っている時に石を落として重三郎を殺してしまったと言う。
「真偽はともかく、立派な石垣と深い井戸があってこそ生まれる伝説です」と高畑さんが語ってくれた。
丸亀城は、同じ平山城である松山城のように木が生い茂ることなく、石垣をめぐらせていることから、周囲の眺望が良い。北側は瀬戸内海や瀬戸大橋、塩飽諸島、天気のいい日には、岡山も見えるそうだ。また、南側には「讃岐富士」と呼ばれる飯野山、讃岐山脈を望め、360度の大パノラマは、急坂を上った疲れを忘れさせる。
最小の現存天守
本丸にある天守は、京極初代藩主の高和の治世であった、万治3年(1660年)に完成した。石垣が日本一に対して、天守は3層3階、東西6間・南北5間と小ぶりで、江戸時代から残っている現存天守の中では最も小さい。当時の絵図には「天守」との記載は見られず、三階櫓との認識であったようだ。
構造上の特徴は、柱の多いことである。通し柱がない代わりに、1階に50本、2階に36本、3階に16本、計102本もの柱がある。宝永や安政の大地震、昭和の南海大地震にも耐え抜いたことから、非常に強固に造られていることがわかる。外部は、唐破風や千鳥破風を巧みに配置し、石落しや素木の格子を付けて意匠をこらしており、美しい姿をしている。
城下町の変貌
かつての丸亀城は、内堀のほか、外堀があり、内堀と外堀に囲まれた範囲と外堀の北東部に武家屋敷があった。明治維新後、大手先の武家屋敷は撤去され、陸軍兵舎が置かれた。戦後、外堀は埋められて道路となったが、かつての武家屋敷地は市役所や警察署、税務署などの官庁街に変貌を遂げた。
丸亀の見どころ
市内には、京極2代目藩主高豊が、貞享5年(1688年)に築き、琵琶湖と近江の景色を模したといわれる大名庭園「中津萬象園」がある。また、丸亀は、旧金毘羅五街道・丸亀街道の出発点にあたり、金毘羅参詣の上陸地としても栄えた。今も残る船着き場には、天保年間(1830~1844年)に造られた「太助燈籠」がシンボルとして残っている。
このほか、「うちわの港ミュージアム」では、金毘羅参詣の土産物であった“うちわ”が武士の内職として奨励され、丸亀の代表的な地場産業となっていった歴史や様々な展示、また、製造実演も行われるなど、見どころは多い。
讃岐名物のうどんや、丸亀発祥の骨付鳥といったご当地グルメも楽しめる。もうすぐ桜の季節、花見がてら丸亀城と城下町を散策されてみてはいかがだろう。
(新藤 博之)
参考文献
「いにしえの時を刻む丸亀城」丸亀市観光協会
「四国の城と城下町」井上宗和
「日本100名城の歩き方」日本城郭協会
丸亀城データ
所在地 | 丸亀市一番丁 |
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別名 | 亀山城(かめやまじょう) 蓬莱城(ほうらいじょう) |
歴代城主 | 生駒氏、山崎氏、京極氏 |
遺構 | 内堀以内(国の史跡)、天守、大手一の門、大手二の門(重要文化財)、玄関先御門、番所、長屋(県指定文化財) |
入場料(天守のみ) | 大人200円 小・中学生100円 |
ボランティアガイド問い合わせ先 | 丸亀市文化財観光案内会事務局 (丸亀市教育委員会総務課文化財保護担当内) TEL:0877-22-6278 |
※文中の「山崎」、正しくはと表記します。
※文中の「蓬莱」、正しくはと表記します。