伊予郡松前町は、石鎚山系に端を発した一級河川重信川を境にして県都松山市に隣接した、道後平野の西南部に位置する。西は伊予灘に面し、南は伊予市を隔て四国山地を望むことのできる豊かな自然に恵まれ、農業、工業、商業のバランスの取れた、人口約3万人を有する町である。
そんな松前町は、小魚珍味生産日本一。今回は、その礎を築くのに貢献した、「おたたさん」にゆかりのある知る人ぞ知るスポットを紹介する。
おたたさん
「魚はいらんかえ」「魚おいりんか」
そんな声を発しながら、魚や煮干、珍味などを入れた「御用櫃」と呼ばれる木製の桶やザルを頭にのせて、家々をまわり行商していた女性たち、それが「おたたさん」である。
「おたたさん」の語源には諸説あるが、その1つが、松前町浜の「天保山旧港」の埠頭にある「瀧姫神社」に祀られた「瀧姫」からの転訛説である。松前の人々は「瀧姫」を「おたきさま」と呼び、「おたきさま」が「おたたさん」に転じたのだという。
黒松が植えられ、商船や漁船が出入りする際の目標となっていた天保山旧港埠頭には、漁師の守護神として、北から「龍王社」、「厄除社」、そして1番南に「瀧姫神社」が位置し、行商の安全と繁栄が祈願されてきた。
おたたさんの祖「瀧姫伝説」
瀧姫についても諸説あるが、永承年間(1046~1052)に、京都の公卿清原朝臣忠武の妹「御多喜津姫(瀧姫)」が、身分違いの愛を遂げようとして罪に問われ、侍女3人と流刑となり、松前の浜に漂着したという説が信じられている。
瀧姫らは、人情厚い松前の人々に触れ、松前を永住の地と決め、自活の道を魚の行商に求めたと伝えられている。その姿は、平元結に銀のかんざしを挿し、どんすの帯を前結びにし、黒羽二重の紋服に裾をからげ、桶を頭上に頂いていたと言い、瀧姫の死後、松前の女性は同じ姿で魚を売り歩くようになった。これが「おたたさん」の始まりと言われている。
瀧姫と侍女らが亡くなると、人々はその死を哀れんで4つの塚を造って手厚く葬った。その後、安永年間(1772~1780)に遺骸を1ヵ所に合葬し、地域の鎮守社としたのが松前町東古泉の「四ツ黒大権現」である。このほかにも、松前町筒井の「義農神社」境内には「瀧姫堂」が建立されるなど、瀧姫は松前町の人々から崇敬されてきたことがうかがえる。
松前の漁師の活躍とおたたさん
松前の漁師は船の舵取りがうまく、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した「文禄・慶長の役」では、藩主が乗る船の水夫として参加した。この働きはすべて無給であったが、その見返りとして領内であればどこでも自由に、無税で、許可証なく漁業する特権を与えられたことから、漁師らは大量の魚を水揚げし、それらを消化するために松前の女性たちが行商するようになった。こうして、「男は出漁、女は行商」の図式が出来上がった。
そして、さらにおたたさんが広く知られる存在となったのは、松前城主であった加藤嘉明による、松山城築城に際しての活躍にある。
松前城から松山城へ、おたたさん大活躍
松前城の起源は明らかではないが、平安時代初期に、軍事交通の要衝であった「金蓮寺」の境内に砦が設けられたのが始まりと言われている。文禄4年(1595)、松前6万石に封ぜられた加藤嘉明が、金蓮寺を移転して松前城を築いた。
嘉明は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに、徳川家康の東軍に従って出征し、その功により20万石になると、慶長7年(1602)に松山城築城に着手、慶長8年(1603)に松山城に移り、松前城は廃城となった。現在は、松前町筒井の東レ愛媛工場の近くに、大正14年(1925)に建てられた「松前城跡」の記念碑が残っている。
松山城築城の際、松前の港には、築城のために大名から送られてきた石垣用の石が山のようにあった。毎日たくさんの「おたたさん」が、魚の代わりにこれらの石を頭に乗せて、松前から松山まで運んでいた。この功があって、おたたさんは「御用櫃」の焼き印の入った桶を頭上に乗せ、松山城下に魚を行商に来ることが許された。城下町だけでなく、松山城の城門に入るのも自由だったと言われている。
珍味日本一の礎
おたたさんによる、松前町や松山市近辺を中心とした近郊行商は、大正時代に入ると、瀬戸内海を渡って遠隔地まで行商する「かんづめ行商」へと発展した。いわゆる出稼ぎである。松前地区では、これを「かんづめに行く」と言い、男性だけでなく、多くのおたたさんも従事した。
「かんづめ」とは1斗缶の容器に珍味などの商品を詰めて運んだことに由来する。かんづめ行商者は、珍味市場開拓のパイオニアとして、戦前には日本全国、さらに樺太、朝鮮、満州、台湾、中国内陸部にまで、“かんづめ”に行き、珍味を広く普及させた。やがて自ら製造工場を経営する者が現れ、現在の松前珍味業界の発展の礎となった。
天保山旧港埠頭には、「珍味発祥之地」の記念碑が建てられている。
ちょこっと松山編
松山城下でも、その存在感を発揮したおたたさん。松山市にもゆかりのスポットがある。
おたたの鑑「おとよ」の「おとよ石」
松山城築城に関わったおたたさんの1人「おとよ」は、その生真面目さから、誰も運ぼうとしなかった、1つ丸に「二」の字の紋が入った大きな石の運搬を引き受けた。しかし、重信川を越え、松山市出合を過ぎる辺りから遅れ始め、松山市保免中にある「日招八幡大神社」で倒れ、帰らぬ人となってしまった。健気なおとよを哀れみ、その際運んでいた石は、「おとよ石」として、今も境内に残されている。
おたたさんの花いけ
松山市南堀端の城山公園の入り口には、かつておたたさんの花いけが設置されていた。その後の整備で撤去され、今は見ることができないが、松山市駅東側の中の川の中央分離帯には、今でもおたたさんの花いけが人知れず立っている。
「はんぎり競漕(H-1グランプリ)」
松前町の塩屋海岸では、毎年8月に行われる「まさき町夏祭り」のイベントの1つとして、「はんぎり競漕(H-1グランプリ)」が開催されている。
【コラム】御面雨乞い
おたたさんが運んだのは魚や石だけではない。天保山は藩政時代から続いた「御面雨乞い」の出発地点でもあり、日照りで水不足になったときには、松前から東温市の「雨滝」までの30km弱の道のりを、桶に海水を入れて運んだのである。
雨乞いの形式にはいくつかあるが、御面雨乞いは、「龍神(水神)」に汚れたものや嫌いなものをかけ、怒って暴れさせ、雨を降らせてもらうというものであった。「御面」は、推古天皇21年(613)、乎智益躬が大三島大明神を祈願し、舞楽を奉納した際、海上に出現した小船に置かれていたと伝えられるもので、現在は、東温市野田の「徳威三嶋宮」と同牛渕の「浮嶋神社」の両三嶋宮に隔年遷座されている。
水不足になると、三嶋宮では2夜3日の祭典を行い、4日目の辰の刻(午前8時)に「御面」を奉じて松前に向かう。松前に着くと「御面」を安置し、海水を汲んで再び2夜3日の祭祀を行い、6日目にはおたたさんも加わって「御本城御用」の赤絹ののぼりを先頭に、「御面」と松前の海で汲んだ海水を雨滝まで運び、海水を投入し、降雨を祈願した。(「IRC Monthly 2015年11月号」参照)
御面雨乞いは、昭和40年頃まで行われていたものの、面河ダム(久万高原町)の完成で水不足になることがなくなったことにより、今は見ることがなくなったそうだ。
「はんぎり」とは、漁師が魚を運搬するため、沖合に泊まっている船まで漕いで行った、大きなたらいのようなもので、珍味製造やおたたさんを支える道具として活躍した。名前の由来には諸説あり、その1つが、味噌や酒などの製造時に使用する桶やたらいを半分に切って使用したことから「半切り=はんぎり」と呼ぶようになったという説である。
文禄4年(1595)に加藤嘉明が領内を視察した際、漁師がはんぎりに乗る様子を見て、「もう一度見たい」と言って競漕させたという記録も残っている。
「はんぎり競漕」は、昭和47年、「蛭子神社」の拝殿新築祝賀行事において復活し、その後中断した時期もあったものの、現在まで受け継がれており、本年も、8月6日に開催される予定である。
おわりに
戦後しばらくまで活躍した「おたたさん」も、現在、その姿を見ることはできない。女性の活躍推進が叫ばれるご時世、その先駆けとして、現在の松前町の礎を築いた「おたたさん」に思いを馳せながら、ゆかりのスポットを巡ってみてはいかがだろうか。
(宮内 雅史)
参考文献
・松前町誌(松前町・1979年)
・文化財あんない(松前町教育委員会・2000年)
・松前町にかかわる近隣の史跡・文化財等(松前町教育委員会・2001年)
・松前町ホームページ
調査月報「IRC Monthly」
2016年5月号 掲載