シリーズ第2回となる今回は、鬼北町の広見地区と日吉地区をつなぐ国道320号沿いの“知る人ぞ知る”観光地を紹介する。
鬼北町は、愛媛県の南西部に位置し、2005年1月1日、旧広見町と旧日吉村が合併して誕生した。町名の「鬼北」は、町が鬼ヶ城山系の北側に位置することに由来しているが、名称に「鬼」の文字が使用されている自治体は全国で唯一、鬼北町のみである。人口は約11,000人、面積は241.88km2で、北は西予市、南は松野町、西は宇和島市と隣接し、東は高知県とも接している。「日本最後の清流」とも呼ばれる四万十川の上流にあたる広見川、四方を囲む標高1,000m級の山々など豊かな自然に恵まれた町である。
鬼のまちづくり
(1)鬼王丸降臨 ~森の三角ぼうし~
鬼北町では2013年度から“鬼”を活かしたまちづくりに着手し、今年2月、そのシンボルとも言える鬼のモニュメント「鬼王丸」を国道320号沿いにある道の駅「森の三角ぼうし」に設置した。
当初、町では愛らしいゆるキャラの鬼のデザインをイメージしていたが、「海洋堂ホビー館四万十」の宮脇館長らの助言により、その姿は身長5m、大きな角、剥き出しの牙、威嚇するような鋭い目つき、そして筋骨隆々の肉体、と誰もがイメージするインパクトのある鬼が降臨することとなった。
一般公募で命名された「鬼王丸」という名前は、町内にある「等妙寺」に伝わる昔話に登場する、身の丈6尺(182cm)を超える大男「鬼王段三郎」に由来していると言う。
(2)鬼王丸効果
鬼王丸には、「金運上昇」、「学業成就」、「恋愛成就」の3つの願いを叶える力があるとされ、今では町の新たなパワースポットとなっている。鬼王丸効果により、森の三角ぼうしには、これまで主体であった高齢客に加え、週末には多くの家族連れが訪れていると言う。
また、森の三角ぼうしでは、鬼王丸のクリアホルダーをはじめ、タラのすり身を伸ばして焼いた「鬼にたら棒」や、願い事が叶うとされる金棒のアクセサリー「鬼に叶う棒」、また「鬼の洗濯板(ボディタオル)」、今治市菊間産の「鬼瓦」など、町内外の鬼にちなんだ商品を多数販売しており、今後も商品を充実させていくようだ。
(3)鬼のまちづくりの今後
鬼北町最大のイベント、産業まつり「でちこんか」は役場近くの奈良川河川敷を会場とし、毎年約3万人が訪れる。ちなみに、「でちこんか」とは地元の方言で「出てきませんか」という意味である。今年は10月10日(土)、11日(日)に開催される予定で、鬼のまちづくりイベント第2弾として、来場者が審査員となる「鬼の案山子コンテスト」も併せて開催される。
また町では、日吉地区の道の駅「日吉夢産地」へも鬼のモニュメント設置を検討するなど、今後も鬼をテーマにしたまちづくりを進め、交流人口の拡大を目指すと言う。
【コラム】鬼北町のおすすめ宿 リニューアルした「成川渓谷休養センター」
鬼北町成川渓谷の宿泊施設「成川渓谷休養センター」が2015年3月、木のぬくもりが感じられるオシャレな洋室を増やしリニューアルオープン!
これからの紅葉の季節、トレッキングなどで爽やかな汗を流し、隣接する天然温泉で疲れを癒した後、鬼北町特産の「きじ料理」を味わってみてはいかがだろうか。
【お問い合わせ】
成川渓谷休養センター
北宇和郡鬼北町奈良 0895-45-2639
古代遺跡と甌穴群 ~広見川沿い~
(1)川沿いの古代遺跡 ~岩谷遺跡~
森の三角ぼうしから国道320号を日吉方面にしばらく進むと、泉小学校近くの広見川東岸に約3000年前の縄文時代後期の遺跡「岩谷遺跡」がある。縄文人が神を祀った跡とされる配石遺構のほか、土器や石器が発見されている。特に、配石遺構は西日本では希少と言われている。
(2)川の流れが産み出した奇岩 ~轟の甌穴群~
甌穴とは河床の岩盤に見られる円形の穴のことである。河床の岩盤が流水や砂礫により浸食され凹凸が生じ、凹所では水流が滞留して回転し、長年をかけて鍋状の穴を開けていくことで形成されていく。急流の広見川には各所に甌穴が見られるが、なかでも国道320号沿いの轟橋付近には大小300個余りの甌穴が分布している。大きいものでは直径2mに及ぶものもあり、形状も円形や楕円形などさまざまである。数千年の年月を経て、渡る水の流れによって造りだされた甌穴群、止まることのない広見川の流れが、これからも新たな自然の造形美を産み出していくことだろう。
先人の偉業を語り継ぐ ~明星ヶ丘~
鬼北町役場日吉支所近くにある「明星ヶ丘」は、歌人 与謝野晶子によって命名されたと伝えられ、1922年に四国初のメーデーが行われた場所でもある。ここからは、日吉地区の歴史・文化施設が集積する明星ヶ丘の名所を地域の発展に寄与した偉人とともに紹介する。
(1)吉田騒動(武左衛門一揆)の指導者武左衛門
「吉田騒動」は、窮乏した藩の財政負担を領民に転嫁してきた吉田藩に対し、1793年に日吉地区上大野の百姓であった武左衛門が指導者となり、年貢の引き下げなどを求めて起こした百姓一揆である。一揆の集結地となった八幡河原(宇和島市)には約1万人もの農民が集まり、騒動を幕府に知られることを恐れた吉田藩は農民の要求を全て受け入れざるを得なかったと言う。江戸時代、全国各地で多数一揆が起こったが、武左衛門一揆は数少ない成功例の1つと言われている。しかし、武左衛門は、新たな一揆が起こることを恐れた吉田藩によって後日捕えられ、打ち首となった。
明星ヶ丘には、武左衛門の偉業を語り継ぐ「武左衛門一揆記念館」が建設されているほか、武左衛門とその同志の「武左衛門翁及同志者碑」、「武左衛門堂」などが建立されている。また、毎年8月14日には、地元住民が百姓一揆の扮装で町を練り歩く「武左衛門ふる里まつり」が開催されるなど、武左衛門の功績は今でも地域の人々に語り継がれている。
【コラム】武左衛門大イチョウ
武左衛門が埋葬された上大野の瑞林寺跡には樹齢450年を超える大イチョウがある。
村人たちは寺の境内に石碑を建て、武左衛門を手厚く供養していたが、吉田藩は石碑を粉砕し、一切の供養を禁止した。領民を救った武左衛門を偲ぶこの大イチョウはいつのころからか「武左衛門大イチョウ」と呼ばれている。
(2)日吉を拓いた井谷正命 ~井谷家住宅~
井谷家は藩政時代、庄屋を務めた旧家で、旧日吉村の初代村長・井谷正命やその長男で後に衆議院議員となった正吉を輩出した。「井谷家住宅」は、もともと村の北東の日向谷にあった旧庄屋屋敷を正命が明治時代に解体し、明星ヶ丘に移築したもので、国の登録有形文化財となっている。移築後の建物は、来客や、家族それぞれの生活空間、採光、通風、眺望などを大切にした正命の思いが反映された質素な佇まいで、近代住宅の始まりを物語る建築物として高く評価されている。
また、正命は1890年に村長に就任して以降、私財を投げ打ってまちづくりに奔走した。日吉の経済・産業・文化発展のために宇和島―須崎線などの幹線道路の整備を進めたほか、中心部の道路幅を拡げ、商店街の整備にも力を注いだ。その幅員は約7.5mと、当時の愛媛県下で最も広かったと言われている。正命亡き後、1935年に商店街の大規模火災が起こったが、再建にあたっては、住民たちの手で、通りに面する町屋の間口・高さ・階層をそろえた町並みが形成された。現在も当時に近い形で残る下鍵山商店街の町並みは文化的遺産とも言えるだろう。
おわりに
これから本格的な行楽の季節を迎えるが、皆さんも鬼のまちの自然、歴史をたどってみてはいかがだろうか。
(中越 隆)
参考文献
・「鬼北の文化財」鬼北町教育委員会
・「義農武左衛門物語」日吉村、日吉村商工会、日吉村むらおこし実行委員会
・「井谷家二代記~地域の発展に懸けた父子の軌跡」鬼北町教育委員会
・「明星ヶ丘・井谷家にみる日吉の文化
-平成23年度鬼北町日吉井谷家住宅総合調査報告書-」鬼北町教育委員会
調査月報「IRC Monthly」
2015年9月号 掲載