八幡浜市保内町は、江戸末期から昭和初期にかけて、海運や木蠟、鉱山、養蚕など、さまざまな近代産業で栄えたまちである。今回は、保内を流れる宮内川沿いを中心に、ノスタルジックな雰囲気を残す保内のまちなみの知られざる魅力を紹介する。
鉱山のまち
保内町川之石には、別子銅山に次ぐ四国第2の鉱山として名を馳せた大峯鉱山がある。この鉱山は明治20年代に菊池長太郎によって発見され、白石和太郎が経営を開始したと考えられている。大峯鉱山は、明治40年頃には月産6,000トンの出鉱量を誇ったといい、昭和33年に閉山するまで、鉱業の一時代を築いた。なお、大峯鉱山は現在も見学が可能である(要予約)。
鉱業で大きな功績を残した白石和太郎の邸宅は、木造瓦葺きに洋風建築を意識したデザインを取り入れた擬洋風の建物で、「旧白石和太郎洋館」として八幡浜市の有形文化財に指定されている。玄関や窓上部に施されたペディメント(二等辺三角形の飾り)や天井に施された鏝絵(左官職人が鏝を使って壁に描いた絵)などが特徴的である。いつ建てられたの
か、建築時期は長らく不明だったが、2005年1月に屋根を修復した際、鬼瓦の裏側に新聞記事のインクが写っているのが発見された。瓦製作時に下に敷いた新聞が写し取られたとみられ、調査の結果、明治36年4月14日の「愛媛新報」(現 愛媛新聞)であることが分かった。これにより、白石和太郎洋館は、明治36年頃に建てられたものということが判明した。
この洋館は、昭和25年から平成元年まで、「川之石ドレスメーカー女学院」として使用されていた。今でも地元では"ドレメ"の愛称で親しまれている。
白石和太郎洋館の近くには宮内川が流れている。川沿いには「もっきんろーど」と名付けられた遊歩道が設けられており、レトロな雰囲気を楽しむことができる。
もっきんろーどにはところどころに「鍰レンガ」と呼ばれるレンガが置かれている。鍰レンガは銅鉱石を精錬する過程で銅分を取り除いた鉱滓からできており、1つ40キログラム程と重い。かつて鉱山で栄えた名残として、ここだけでなく、保内の至るところで目にすることができる。また、対岸には「伊予青石」が矢羽積みされており、運河として利用されていた雁木も見える。青石は、佐田岬半島を形成する主要な岩石で、場所により多くの銅鉱石を含む。それが白石和太郎など川之石周辺の経済人たちの富のもととなったという。保内では、家の基礎や段々畑の石垣などにも利用されている。
紡績のまち
鉱山で栄えていた明治時代に思いを馳せながらもっきんろーどを歩いていると、左手に旧東洋紡績の倉庫が見えてくる。
東洋紡績川之石工場は、大正3年に大阪紡績と三重紡績の合併により誕生した。東洋紡績の最盛期は昭和の初め頃で、当時は2,000人を超える工員が働いており、町民の3人に1人は工員であったという。昭和35年に閉鎖され、現在は製材倉庫として使用されているが、趣のある赤レンガの建物の姿は当時と変わらない。ほとんど消えかけているが、よく見ると、倉庫の壁には「東洋紡績川之石工場」という白い文字が残っているのが分かる。このまちの黄金時代を象徴する貴重な建物である。
また、倉庫の目の前を流れる宮内川には、美名瀬橋というコンクリート造りの橋が架かっている。弘化元年(1844年)に「皆瀬橋」の名で木造の橋が建設されたのが始まりで、明治43年に一度架け替えられ、昭和8年には現在のコンクリート製の橋になり、やがて平成10年に住民活動を元に保存改修された。
養蚕のまち
保内は養蚕も盛んな地であった。その歴史は、明治17年に、保内の呉服商 兵頭寅一郎が「日進館」の屋号で蚕種製造業を開始したことまでさかのぼり、大正5年には全国養蚕業者で7位の出荷額となるなど隆盛を極めた。大正12年の「全国蚕種製造家番付」によると、日進館は関脇に番付けされている。合資会社、株式会社への改組、戦時統制による統合解散を経て、昭和21年に「愛媛蚕種株式会社」が設立された。
国の有形文化財に指定されている愛媛蚕種の建物は、事務所部分は明治後期の建築と伝えられる2階建ての洋風の外観で、1階の上下スライド窓の上部にはペディメントが施されている。蚕室は木造瓦葺きで、大正8年の建築と言われている。蚕の成長促進や病気防止のためには通風が重要なため、全面開閉可能なガラス扉で、風通りが良くなる設計なのだそうだ。
大正時代には55,000戸もの養蚕農家を抱え、西日本一の養蚕県であった愛媛だが、現在、県内の養蚕農家は11戸(西予市7戸、大洲市2戸、愛南町1戸、鬼北町1戸)にまで減少している。愛媛蚕種は、今も現役で営業している西日本で唯一の蚕種会社である。現在は、絹の特性を利用した医薬品や化粧品などの研究開発にも参加している。また、事務所は2002年に公開された、愛媛を舞台にした映画「船を降りたら彼女の島」(木村佳乃主演)のロケ地にも使われているので、ぜひチェックしてみていただきたい。
海運のまち
保内の海沿いにある雨井地区は、宇和島藩の海運の拠点であり、保内の繁栄の起点となったところである。その象徴とも言えるお屋敷が今もいくつか残っており、「布袋屋」「和泉屋」「おやけ」という屋号で知られる。特に「西のおやけ」と呼ばれる菊池庸夫邸は和洋折衷のお屋敷で、白石和太郎洋館と同時期に建てられたと推測されている。礎石に大きな青石が使われているほか、至るところに鏝絵が施されていたり、避雷針アースが取り付けられていたりと、当時の繁栄をあらわすような見事な技術をそこかしこに垣間見ることができる。現在は空き家となっており、残念ながら中を見ることはできないが、高い塀からのぞく洋館のステンドグラスやペディメントに往時の情景が思い浮かぶ。
金融のまち
海運や鉱業で活況を呈していた川之石は、幕末期に宇和島藩が財政窮乏のなかにあって9千両にも及ぶ献金があるなど、富豪が多いことで知られていた。そのような背景から、明治11年、愛媛で最初の銀行(全国で29番目、四国で2番目)として川之石に第二十九國立銀行が設立された。
第二十九國立銀行は現在の伊予銀行の前身である。昭和9年に八幡浜商業銀行、大洲銀行と合併して豫洲銀行となったのち、昭和16年には松山五十二銀行、今治商業銀行と合併して伊豫合同銀行となった。今年8月の移転まで使われていた伊予銀行旧川之石支店の裏には、愛媛の銀行発祥の地として記念碑が建てられている。
保内三傑
保内は産業人だけでなく、多くの偉人を輩出しており、白石和太郎洋館からほど近くにある保内中学校の校舎の壁面には、保内出身の3人の偉人が描かれている。
1人目は富澤赤黄男。明治35年生まれの俳人で、俳句や評論、詩などを多く発表した。毎年赤黄男の忌日である3月7日前後に、俳句愛好者による「富澤赤黄男顕彰俳句大会」が開催されている。
2人目は二宮敬作。江戸時代の蘭学者・医学者で、日本人初の女医となったシーボルトの娘、楠本イネを養育したことで知られている。
3人目は前田山英五郎。昭和22年に33歳で第39代横綱となった。現役引退後は相撲の国際化に尽力した。
この3人は「保内三傑」と呼ばれ、今でも地元の人たちに敬愛されている。
おわりに
近代産業が栄えた保内は、まちの至るところに当時の面影がそのまま残っている。歴史的に価値のある建物なども多く、レトロな雰囲気を感じながらぶらりと川沿いを歩くことをおすすめしたい。
また、今回の取材では、近代化遺産活用アドバイザーの岡崎直司さんに案内していただいた。この場を借りて御礼申し上げます。
(加藤 あすか)
問い合わせ先
- 保内町商工会(電話:0894−36−0519)
参考文献
- 愛媛県の近代化遺産 愛媛県教育委員会
- 創立10周年記念誌 保内ボランティアガイドの会