日本には狸にまつわる伝説が数多ある。ぶんぶく茶釜や証城寺の狸話は、皆さんも一度は聞いたことがあるだろう。ここ愛媛にもたくさんの狸伝説が残っている。今回は、西条市の喜左衛門狸の伝説にスポットを当て、ゆかりの地をめぐってみよう。
四国三大狸「喜左衛門」と大気味神社
宝永2年(1705)、風水害や虫害で当地一帯が飢饉に陥った。困った村人は、神の助けを得ようと五穀の神 大気都比売を祀って大気味神社を創建した。
その神社の境内にある大樹に棲んでいたのが、狸の喜左衛門である。変幻自在の神通力を持った知恵狸で、屋島の禿
狸、新居浜の小女郎狸と並ぶ"四国三大狸"と称され、その名は遠く上方にまで知れ渡っていたと言う。
大気味神社は、JR壬生川駅から徒歩で約10分の住宅街のなかにある。
喜左衛門と禿狸の化け比べ
ある日、屋島の禿狸と会った喜左衛門。いろいろ話をするうちに、化け比べをすることになった。
禿狸は、少々考えてからパッと姿を消したかと思うと、喜左衛門の目の前で壇ノ浦の源平合戦を見事に演じて見せた。「さすが禿狸!」とうなる喜左衛門に、「今度は君の手並みを見せてくれ」と禿狸。喜左衛門は「準備があるから数ヵ月後に大名行列をお目にかけよう」と言って別れた。
約束の日、喜左衛門に言われたとおり禿狸が街道沿いで待っていると、殿様が大勢の家来を連れてやってきた。「喜左衛門、上出来だ」と禿狸が手を叩きながらお駕篭に近づくと、家来は「無礼者!」と禿狸を切りつけた。
それもそのはず。この行列は喜左衛門の化け行列ではなく、本物の殿様の行列だったのだ。賢い喜左衛門は、前もって知っていたこの行列を化け比べに利用し、禿狸はまんまと騙されてしまった。
大気味神社の社では、今まさに化けんとする喜左衛門が参拝者を出迎える。
中に入ると、喜左衛門狸の会(後述)が第1回の喜左衛門祭りに合わせて作った、高さ2メートルほどの張り子の喜左衛門がある。作られてから20年以上経っているにもかかわらず、色あせずつややかなその姿を見ると、喜左衛門が地元の方々にいかに大切にされてきたかがわかる。さらに奥に進むと、喜左衛門を祀った小さな祭壇がある。喜左衛門は大気
味神社の眷属(神の使い)として、7つの誓願を立て、人々を救済したそうだ。
現代によみがえった喜左衛門
喜左衛門を現代によみがえらせたのは、「喜左衛門狸の会」の皆さんだ。
1996年、同会の会長 徳田紀男氏が、企業や観光名所が少ない東予市(当時)の"顔"となるものはないかと考えていたときに、地区にある大気味神社の喜左衛門の伝説を思い出した。そこで、地元の有
志で「喜左衛門狸の会」を結成し、喜左衛門をシンボルとした町おこしを始めた。
イメージキャラクターができたり、「喜左衛門祭り」が開催されたりするなかで、喜左衛門の知名度は次第に上がっていき、ついには、今で言う"ゆるキャラⓇ"のように、イメージキャラクターが公的に認められるようになった。
JR壬生川駅周辺では、いたるところで喜左衛門に出会う。トイレには、特産の手すき和紙に描かれた喜左衛門の絵が掲げられ、バス乗り場には彫刻家近藤哲夫氏が製作したブロンズ像の喜左衛門。また、2015年に開通した、駅前と駅西広場をつなぐ連絡橋は「ぽんぽこ橋」と名付けられ、欄干には5匹の喜左衛門のイラストがかけられている。
喜左衛門をかわいがった南明和尚と長福寺
喜左衛門の名付け親は長福寺の南明和尚と言われている。喜左衛門は小僧に化けてよく南明和尚のお供をしていた。喜左衛門はうっかりしっぽを出したままでいて、「こら、喜左見えるぞ!」と和尚にたしなめられることもしばしばだったそうだ。
長福寺は、大気味神社から徒歩3分ほどのところにある。弘安5年(1282)、伊予水軍を率いた河野通有が戦没者の冥福を長く弔うため、自らの館を禅寺に改め長福寺と名付けたのが始まりと言われている。南明和尚が入寺したのは、寛永20年(1643)のことだそうだ。
門を入って右手にある梵鐘は、明暦元年(1655)に織田信長の息女本光院が京都大徳寺に寄進したものを、明治元年に譲り受けたもので、県指定文化財となっている。
また、境内にある藤棚は、見ごろになると3色の花を咲かせ、近隣随一の藤棚と言われている。
生木地蔵のおしぶ狸
喜左衛門と一緒にカニを取ったという伝説が残るおしぶ狸は、正善寺・生木地蔵堂の楠の洞穴に棲んでいた。
生木地蔵とは、弘法大師が生きた木に一夜のうちに彫りつけた地蔵である。あと片耳だけ彫れば完成という時分に、鶏の鳴き声に驚いて帰ってしまったため片耳しかないが、耳の病の願掛けをすると必ず治ったと言われている。
現在、生木地蔵は本堂に安置されているが、楠にはお地蔵さまと狸が仲良く並べられている。
おしぶ狸と喜左衛門
おしぶ狸は、毎日病人の願掛けを聞くのが嫌になり、喜左衛門のところに遊びに行った。2匹は翌日、人間に化けてカニ取りへ行く約束をした。
喜左衛門は若い娘に、おしぶ狸は老婆に化け、北条の川へ降りて行った。見慣れないどこかのお嬢さんとおばあさんがすごい勢いでカニを取っていたものだから、周りには大勢の人が集まってきた。
そのうち一人が、娘の着物から何かが出ていることに気づいた。「よい!つかんだぞよ、しっぽじゃ」それを見たおしぶ狸が「これはこれは喜左殿」と口を滑らせてしまったため、喜左衛門は慌てて逃げ出した。
なぜしっぽが見えてしまったのか。それは喜左衛門が化けるときに、おしぶ狸が喜左衛門のしっぽについた葉っぱをこっそりはぎ取っていたからだった。
八堂山のお染狸
武丈公園の方から八堂山を登って行くと、朱塗りの鳥居が現れ、その先にお染狸を祀ったと言われる八堂大明神がある。お染狸は、喜左衛門の奥さんのお姉さんで、新居浜の小女郎狸とはいとこ同士だったとか。反戦平和の守り神と言い伝えられており、昔は登山口から祠までのぼり旗が建てられ、参詣者でにぎわっていたそうだ。
お染狸の伝説
お染狸は反戦狸だった。それゆえ、お染狸に熱心に祈れば、彼女は神通力を発揮して、徴兵検査で第一級の合格とされた者でも、くじ逃れして徴兵に行かずに済んだという。くじに当たって入隊したが、原因不明の発熱で除隊になる者もいた。ところがフラフラで帰宅したとたん、憑き物が落ちたようにケロリと元気になったそうだ。また、たとえ戦場に出ても、鉄砲玉のほうが兵士をよけていったという。
ちょっと足を延ばしてみよう。西条市考古歴史館の脇にある登山道から八堂山を登っていくと、山頂付近に八堂山遺跡がある。登山道は階段状になっているが、木の根っこが階段代わりになっているような急斜面もあり、軽い気持ちで登り始めると、ちょっとだけ後悔する。それでも息を切らしながら10分くらい登ると、遺跡が見えてくる。
この遺跡は弥生時代の高地性集落跡で、入母屋竪穴式住居や高床式円形倉庫が復元されている。
もしかしたら、人々と一緒に狸も暮らしていたかもしれない。
語り継ぐことの大切さ
喜左衛門狸の会は、地域で眠っていた喜左衛門を叩き起こしただけでなく、ボランティアでも熱意があれば、まちを動かせることを証明した。活動を始めて22年が経過し、喜左衛門は、まちのシンボルとしてすっかり生活に溶け込んでいる。しかし、溶け込みすぎてしまうと、忘れられてしまう可能性もあるだろう。
狸をないがしろにすれば、怒っていたずらをしかけてくるかもしれない。狸伝説には、狸をいじめて仕返しされた人の話が山ほどあるのだ。
喜左衛門の話は文献によって細部が微妙に異なっているが、それは長い年月をかけて大勢の人たちが物語を語り継いでいった証だと思う。そのなかで、話に尾っぽがついたとしても、狸たちはまったく気にしないだろう。むしろ、上手く変化していくことを面白がってくれるに違いない。
(川野 志子)
参考文献
- 合田正良(1951)『伊豫路の傳説 狸の巻』新居浜郷土文化研究会
- 玉井葵(2004)『伊予の狸話』創風社出版
- 正幸(2011)『狸めぐり 民俗資料』非売品