県内20市町の「知る人ぞ知る愛媛の観光地」を紹介してきた本企画も今回で最終回を迎える。フィナーレを飾るのは松山市である。
司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」を軸としたまちづくりを進める松山市。この地には秋山兄弟が活躍した日露戦争に関する場所やエピソードが数多く残っている。今回は来春、映画化が予定され、注目が高まっているロシア兵捕虜にまつわるスポットを紹介する。
日本初のロシア兵捕虜収容所
日露戦争時には日本各地にロシア兵捕虜の収容所がつくられたが、その中で最初に開設されたのが松山であった。
松山が選ばれた理由は、「軍隊駐屯地であったこと」「気候が温暖であったこと」「大陸からの輸送が便利だったこと」「道後温泉があったこと」など諸説あり、はっきりとした理由は分かっていない。
最終的には市内21ヵ所に収容所が開設された。その多くは敷地が広く、大勢の捕虜を収容することができる寺院が利用された。多い時には4,000人を超えるロシア人が松山に収容されていた(当時の松山の人口は約30,000人)。
「マツヤマ!」
日露戦争の捕虜が厚遇されたというのは有名な話である。日露戦争は、捕虜を人道的に扱うことを定めた「ハーグ条約」に準拠して行われた初めての戦争だった。文明国であることを世界にアピールしたい日本政府は、最初の収容所が開設された松山での捕虜の生活ぶりを世界に発信したといわれている。そのため、ロシア兵の間でも松山は有名になり、投降する際に「マツヤマ!」と叫ぶようになったようだ。
収容所での生活の中で特徴的なのは「自由散歩制度」。将校のみではあるが、決まった曜日・時間に市内を散歩することが可能だった。捕虜将校は自転車で外出し、買物をしたり道後温泉を訪れたりと松山の経済にも貢献していたようだ。
ロシア兵捕虜の眠る地
松山城から北に少し離れた御幸町の一画に、傷病などにより松山で生涯を終えることとなったロシア兵捕虜98名が眠る墓地がある。
日露戦争時に建立された墓地は現在の松山大学御幸キャンパスのプール付近に位置していたが、1960年に現在の場所に移転された。2007年には駐車場や多目的トイレ、スロープなどが設置され、観光施設として整備されている。
ロシア兵捕虜の墓は全て北向きに建立されている。異国の地で亡くなった人々に、せめて祖国を眺めながら眠ってほしいという思いやりの心が込められているのだ。
ロシア兵以外も眠る墓地
ロシア兵墓地の敷地内には、整然と並ぶロシア兵の墓から少し離れた場所に、ドイツ兵とアメリカ兵の墓も建立されている。
ドイツ兵の墓には第一次世界大戦時に松山に連行された捕虜で唯一亡くなった人物が、アメリカ兵の墓には太平洋戦争時に県内上空で起きた飛行機事故の犠牲者2人が眠っている。アメリカ兵の犠牲者の名前が分からないため、墓石には「米国海軍無名戦士之墓」と刻まれている。
日露友好のかけ橋
ロシア兵墓地では毎月第2土曜日に、勝山中学校やロシア兵墓地保存会などのボランティアの方々が清掃活動を行っている。この活動は現在地に移転した頃から始まっており、50年以上続けられている。
1994年には、この活動に感銘を受けたロシアの人たちの呼びかけにより寄付金が集められ、「日露友好のかけ橋」と刻まれた銅像が設置された。銅像のモデルとなったボイスマン大佐は、松山で亡くなった捕虜の中で最高位の人物である。
また、毎年3月には在大阪ロシア連邦総領事館の方も出席する慰霊祭が執り行われるなど、ロシアとの交流が続いている。
恋人の聖地 松山城二之丸史跡庭園
ロシア兵捕虜収容所として利用された市内の衛戍病院(※1)の跡地は、現在、松山城二之丸史跡庭園として整備されている。季節ごとに様々な植物に彩られた美しい庭園は、恋人の聖地としても人気を博している。
※1: 衛戍病院とは旧日本陸軍の衛戍地に設置された病院。衛戍地とは軍隊が長く駐屯して防衛する重要地域のこと。
恋人の聖地とは
恋人の聖地とは、NPO法人地域活性化支援センターが認定している「プロポーズにふさわしいロマンチックなスポット」。2018年8月現在、全国139ヵ所、愛媛県内では4ヵ所(※2)となっている。松山城二之丸史跡庭園は2013年10月に認定された。
※2:松山城二之丸史跡庭園(松山市)、具定展望台(四国中央市)、ふたみシーサイド公園(伊予市)、伊予灘サービスエリア(伊予市)
恋人の聖地に認定されて以来、入場者数は順調に伸びている。聖地に認定される前の2012年の入場者数は約3.6万人、2013~17年の年間平均入場者数は約6万人と聖地認定前と比べると約1.7倍に増加している。
毎年11月には「光の庭園」と題してライトアップイベントを実施し、聖地の雰囲気を高めている。
1枚の金貨が語る物語
認定されたのは、ある物語があったからだ。その物語は1枚の金貨から始まった。1985年、庭園内の採掘作業の際に、衛戍病院関係の物品が多数見つかった。これらの物品の整理が2010年に行われ、1枚のロシア製の金貨に名前が刻まれていることが判明した。「コステンコ ミハイル」「タケバ ナカ」。日露戦争当時の新聞記事によると、この2人
はロシア兵捕虜と日本人看護師である。コインの上部にペンダントとして加工した跡が残っていることから、捕虜が看護師にプレゼントしたものではないかともいわれている。
ただし、当時、敵国だったロシア兵との交際は禁じられていたため、男性は静岡の収容所へ移され、女性も衛戍病院の看護師を解嘱され、離ればなれになった。国を越えて心を通わせたにもかかわらず、無理やり引き裂かれてしまった2人のエピソードが注目され、恋人の聖地の認定につながった。
この金貨にまつわるエピソードは、2011年に「坊ちゃん劇場」によりミュージカル化され、2012年にはロシアでも公演が行われ、多くの喝采を浴びた。
なお、この金貨は現在、坂の上の雲ミュージアムに展示されている。
ソローキンの見た桜
松山のロシア兵捕虜収容所を舞台にした映画「ソローキンの見た桜」の製作が現在行われており、2019年春に劇場公開が予定されている。6月に松山で行われた撮影には、人気俳優の斎藤 工氏も参加するなど話題を呼んでいる。
この作品もロシア兵捕虜と日本人看護師の恋を描いた作品であるが、原作は金貨に名前が刻まれていることが判明する前の2004年に南海放送㈱が制作したラジオドラマである。制作された当時フィクションであった物語は、金貨の発掘によりリアリティを持つことになったのである。
映画の製作をきっかけに、松山とロシアの交流を活性化させようとする動きも活発になっており、ロシアの国営放送で松山を紹介する番組の放送などが予定されている。
今回紹介したロシアに関連したスポットは、「ソローキンの見た桜」の公開をきっかけに、大きな注目を集めるだろう。100年以上前から続くロシアとの絆に想いを馳せることもできる、歴史薫るまち松山。今後も国内外からより多くの観光客が訪れることに期待したい。
(岩本 卓也)
参考文献
- 松山大学(2004)『マツヤマの記憶 日露戦争100年とロシア兵捕虜』成文社
- 宮脇昇(2005)『ロシア兵捕虜が歩いたマツヤマ 日露戦争下の国際交流』愛媛新聞社